中国史研究は、近年大きな変化を遂げてきているという。たとえば、かつての社会経済史研究の重視から、地方での動向を含めた地域史・交流史や文化史研究へのシフトという、研究課題の潮流の変化がある。また中国各地で進む開発のなかで、地中から大量の「墓誌」が掘り出されたことによる、新たな研究史料の発見と活用──。
中国唐代の祭祀儀礼について探究している江川式部・文学部史学科准教授へのインタビュー後編。歴史の細部へもぐりこみ、そこから全体像を見晴るかす、そんなダイナミズムに一緒に身をゆだねてみよう。
唐王朝では皇帝も役人たちも、祭祀儀礼を次から次へ、スムーズに執り行うことに心を砕いていたというのが、インタビュー前編でお話ししたことでした。実はこうした礼制を重視する見方は、従来の中国史研究において主流ではありませんでした。かつては社会経済史に重きを置く研究が主流でした。
現在私が研究している王朝の祭祀儀礼のようなテーマも、1980年代後半から1990年代にかけてようやく注視されるようになってきたと思います。本学の文学部名誉教授であり、『中国古代皇帝祭祀の研究』といったご著書のある金子修一先生などは、いちはやくその課題に取り組まれた研究者のお一人ですが、私の研究はそうした先人の方々が築いてくださった歴史の上に成り立っています。
近ごろ関心を抱いて研究を進めてきたテーマのひとつは、唐代後半における「藩鎮」と、地方の祭祀儀礼についてです。これについては、すこしだけ前段となる歴史をお伝えしたほうがいいかもしれません。
唐の地方行政は州(責任者は刺史)と県(責任者は県令)によって行われていましたが、とくに辺境の、軍事的防備を必要とする地域には、藩鎮とよばれる軍事・行政組織を配置していました。この藩鎮の責任者が節度使です。そうした節度使の一人であった安禄山が起こした「安史の乱(755-763)」を経て、藩鎮は辺境だけでなく内地にも置かれるようになり、その地方の軍事権と行政権とを掌握するようになる……というのが、いわゆる唐後半期の「藩鎮体制」です。教科書的な知識としてご存じの方も多いかもしれません。
では、そうした藩鎮はそれぞれの地方、いわゆる在地の社会に対して、なにか文化的な役割を担ってきたのでしょうか。
唐代後半期の藩鎮体制に関しては、すでに膨大な研究が重ねられてきているのですが、その多くは、唐朝中央との関係性や、経済・軍事面など軍閥的な側面について考察するものでした。しかし、藩鎮が在地社会に果たした文化的役割というのも、考えてみる意味はあるのではないかと、私は考えています。
というのも、節度使がその地域を支配するには、軍事力だけでなく経済力も必要、そして地域の人々に対する社会的・文化的な支援や活動も求められました。そこで意味をもってくるのが祭祀儀礼です。たとえば農民たちが、雨が降らないので何とかしてほしいと言ってくる。そこで供物を整え地元の祠廟に出向いて、雨乞いの儀式を主催するというようなことを、在地の責任者として行なうのです。
そうした藩鎮と地方社会との関係性ですが、私が研究した例では、節度使が地方の祠廟を再建して保護していたり、一度途切れていた現地の祭祀を復活させていたりしたことが明らかになりました。また唐朝も、このような在地の信仰に対して、かなり寛容であったようなのです。
くだけた言い方をしますと、唐というのは、あまりガチガチに統率された社会ではないということが、私としては理解できてきた。ゆるやかな統一感がある、といえばいいでしょうか。そんな唐の在り方を、地方における礼制のありようという観点から考えていきたいと思っています。
近年、こうした中国史研究の、そもそもの土台となる史料にかんして、ある“変化”が訪れています。
版本(印刷本)や抄本(写本)など、紙本として残されてきた史料は、これまでも重視されてきましたし、私もそうした伝世の紙本史料を用いて研究を進めてきました。たとえば、唐代の祭祀儀礼を事細かに記した『大唐開元礼』を読んでいると、使われる器の大きさや重さについて、イメージが浮かぶことがあります。
マニュアルといっても、祭器のサイズや形・重さまで書かれているわけではありません。しかし例えば、ふたりで持ち上げるなどと書いてあると、「あ、大きかったり重かったりするのかな」と推測できるわけですね。あるいは、酒類やその器を準備する場面に、担当官が大人数を引き連れているようであれば「これは相当な数量を用意するのだな」と想像がつく。こうした行間を読むのはとても楽しいものです。
ただ、仮に『大唐開元礼』であれば、ある意味で“建前”をまとめているものですから、そこから人間一人ひとりの“顔”まで浮かび上がらせるのは難しい。また例えば、実際に地方の州や県で行われた祭祀については、中央のように記録が残りませんから、正史などの編纂史料だけでは研究に限界があります。
祭祀儀礼に関わるところだけでも、紙本の伝世史料では追究できない部分がかなりあるわけです。そうしたなか近年、重視されてきたのが「墓誌」などの石刻史料です。
いま日本の墓地でも、故人の事績を刻文した墓誌を見かけることがありますが、唐代につくられていた墓誌は、墓の外ではなく、地中につくった墓室の中に入れます。一般的には数十センチ四方ほどですが、大きなものでは1メートル四方を超える大きさの石の板に、どのような親のもとにいつ生まれ、どのように出世したか、どのような子どもがいるか、いつどこで亡くなり、どこに埋葬されたのか、というようなことが詳細に刻文されています。
こうした墓誌は、とくに1990年代以降の中国において、たくさん出土しています。中国の各地で急激に開発が進み、都市郊外の、かつては墓地であった場所の地下を深く掘るようになったからです。大都市の郊外に空港を建設するときなどにも、大量に発見されています。
こうした墓誌には、伝世史料には出てこない情報が刻されている場合があります。もちろん墓誌ですから、書かれている内容の何もかもが正確というわけではありませんが、このときに行われた祭祀儀礼に参加した、というような記述が残されていることがあるわけです。
従来はなかった“顔の見える”史料としての墓誌が陸続と発見されていて、さらにそれら墓誌の情報が、拓本写真とともに編纂され、次々と出版されてきています。もっと人の顔が見える具体的な事例をふまえて、当時の制度の「建前」としての意味を推し量ってみる。中国史研究のありかたも、これからそのように変化していくのかもしれません。
唐代の祭祀儀礼を研究する江川式部准教授が語る前編「ほぼ毎日、どこかでおこなわれていた唐代の祭祀儀礼」はこちらをタップして進んで下さい