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ほぼ毎日、どこかでおこなわれていた唐代の祭祀儀礼

唐代の祭祀儀礼とは ー前編ー

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文学部 准教授 江川 式部

2023年6月5日更新

 皇帝も役人も、年がら年中、朝から晩まで祭祀儀礼に追われて汲々としている──そんな唐朝の姿を、想像できるだろうか。一見コミカルにさえ思える当時の宮中の様子だが、しかしそこには、必死になる理由もまた存在した。

 唐代の祭祀儀礼について研究を進める、江川式部・文学部史学科准教授。インタビューでその内容を尋ねると、一般的なイメージとはすこし離れているかもしれない唐朝の姿が、生き生きと伝わってきた。

 

 じつは私自身、最初から中国王朝の祭祀儀礼に興味があったわけではありませんでした。大学院に入るときに関心を抱いていたのは、唐代の商工業、特に手工業についてでした。そのなかで当時の酒造業や酒造の技術に目を留めたのが、現在に至る私の研究を方向づけるきっかけになりました。

 酒は地域を問わず、古来より人間の生活に密接に関係してきた加工品です。その酒をテーマにして、唐という時代の中での生産と消費の様子を見ていこうとした……のですが、どうも不思議なんですね。

 たとえば、官制や法制といった国家の制度について書かれている『唐六典(とうりくてん)』をひもとくと、「良醞署(りょううんしょ)」という醸造機関が、官署の中に置かれていたことがわかりますが、そこで造られている酒の種類が驚くほど多いのです。しかもそれぞれが「汎斉(はんせい)」「事酒(じしゅ)」「鬱鬯(うっちょう)」など奇妙な名前の酒類でした。

 当時はすでに、民間でふつうに酒がつくられている状況でした。宮中での飲食に用いるだけでしたら、世に出回っている上等な酒を手に入れればいい。しかし、そうした調達の仕方ではなく、官署において特殊な酒類をたくさん造っていたわけです。そして、そうした酒類の配供を専門とする人たちもいる。これは一体何をする組織なのだろうか……と調べていくうちに、祭祀儀礼の研究に入っていったのでした。

 そこから改めて、多くの史料を読み込んでいくことになりました。唐代の礼典として、150巻のうちそのほとんどが現存している『大唐開元礼』(以下『開元礼』)には、当時の祭祀儀礼に関わる諸規定や儀式次第などがまとめられています。こうした史料を読み解きながら博士論文『唐代酒礼の研究』をまとめて、より広く、唐代における祭祀儀礼のあれこれについて考えていくことになったのです。

 唐朝の祭祀儀礼は、調べていけばいくほど驚くことばかりでした。都では、ほぼ毎日どこかで、何かしらの祭祀儀礼が執り行われていた。それぞれに設営や準備、終われば片付けも必要であるわけですから、関係部署の役人たちは、ほとんど年がら年中、祭祀のために奔走していたといっても過言ではありません。

 『開元礼』をみますと、唐皇帝が執り行うべきとされた祭祀儀礼の種類が、とても多いことがわかります。一般的に、中国王朝の皇帝というと、悠然と玉座にすわって臣下に命令を下しているようなイメージがあるかもしれません。しかし皇帝自らが何日も潔斎し、当日はまだ日ものぼらない早朝から祭祀儀礼に出張らなければならなかったり、ときには何十日もかけて地方に出向いて祭祀を行うようなこともありました。本当に忙しかったことがわかります。

 もちろん、いわゆる日常の政務もおこなわなければなりません。ですから予定されている祭祀儀礼のすべてを、皇帝が執り行う(=「皇帝親祭」)ことができるわけではありませんでした。しかし、では祭祀儀礼を取りやめるかといえば、決してそうではありません。皇帝の代理として役人が担当する(=「有司摂事」)ことまでもが決められていたんですね。とにもかくにも、祭祀儀礼を予定通り執り行うことが優先されていたのです。

 加えて面白いのが、当時の他の史料もあわせて読んでいくと、唐朝の祭祀儀礼においては規定と実際のあいだに乖離があったのがわかる、ということです。

 『開元礼』はあくまで礼典としてまとめられたものであって、年間を通じて多くの祭祀儀礼を滞りなく執り行うための“慣例”については書かれていません。代理を立てるといっても実際には、代理として定められている役職の人間が、必ずしも担当できるわけではないのです。たとえば、タイミング悪くその人の身内に不幸があれば、当日は代理を務められません。

 そのとき、“代理の代理”をどう立てるかということが、議論されたりもしています。国家祭祀ですから誰でもいいわけではないので、祭祀挙行をまかせる官の任命には、慣例として一定の原則があったのです。関係部署の役人ではなくとも、動員される場合がありました。

 唐朝は、なぜそこまで祭祀儀礼を重視していたのでしょうか。

 漢代以後、中国の皇帝というものは、天から地上の支配権(天命)を任された人物だと考えられてきました。天命を受けているから、地を支配できる。では天がその皇帝を、不適切だ、皇帝失格である、と判断した場合はどうでしょうか。天災や戦乱が起こり、その王朝は倒れ、天命は他姓の人間にうつっていくわけです。これがいわゆる「革命」思想です。

 だからこそ歴代王朝の皇帝と官府は、天の意向をうかがう必要があった。王朝が祭祀儀礼を執り行うということは、彼らがこうした世界観のなかで生きていたということに基づいているのです。

 唐の『開元礼』は、中国の歴代王朝の祭祀儀礼制度の決定版ともいえるほど、詳細な規定がまとめられたマニュアルです。『開元礼』以前の各王朝の国家礼典については、散逸して残っていません。あるいは後の宋朝においても礼典は編纂されていますが、残念ながら唐の『開元礼』のようなほぼ完全な状態のものは、現存していません。

 インタビュー後編では、調査研究をめぐる近年の動向もあわせてご紹介します。

 

江川式部准教授が語る後編『唐代後半における「藩鎮」と、地方の祭祀儀礼がもつ文化的役割』はこちらをタップして進んで下さい

 

 

 

江川 式部

論文

『封氏聞見記訳注』(八)(2022/03/31)

唐代の藩鎮と祠廟(2021/02/15)

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