植木直一郎は、國學院大學教授・神社本庁参与などを務めた人物として知られる。植木の学問は、学位論文となった『御成敗式目研究』に象徴されるように日本法制史を中心にしながらも、その著作や論考は広範囲に及び、我が国の古典全般に通じていたと過言ではない。
植木は、明治31(1898)年に本学本課を第6期生として卒業した。そのとき成績優秀により賞与を受け、卒業論文は「徳川氏の大名操縦策」であった。その後、東京府城北尋常中学校(後に府立第四中学校、現在の戸山高等学校)で教職に就く。同校は、21年9月に皇典講究所敷地内の一画に設立した補充中学校を前身としており、27年4月に東京府城北尋常中学校と改称したが、このときも皇典講究所敷地にあった。そのため、恩師たちとの交流は続いたようである。植木は教鞭を執りつつ32年1月には東京外国語学校別科(英語科)に入学(翌7月まで在学)、翌年6月からは清国公使館の嘱託により館員に日本語を教授するようになった。
転機は明治36(1903)年であった。東京府立第四中学校を退職、清国公使館の日本語教授も辞して、10月に國學院大學研究科に入学し、再び母校に籍を置くこととなったのである。このとき國學院では、創立の当初に卒業した者が更に学ぶ研究科を設置していたが、第一期の卒業生を世に送った後は、経済的な理由から休講状態が続いていた。だが研究科の重要性と世間の要望も高かったため、皇典講究所は國學院を充実して所謂大学と同一程度の高等教育機関とするため、36年9月の新学年度より研究科を再開するに決し、同年4月に研究科の規定を改めて文部省の認可を得た時であった。植木は、恩師の畠山健の勧めもあり第一期生として入学した。同研究科は本学の卒業生で、かつ成績優秀者を対象としており、授業料は免除され卒業生は「國學院学士」と称することができた。研究科は、国史法制・国語国文・道義の3科で、修業年限は2カ年であった。植木は、国史法制科に「日本法制史(特に武家時代)」との研究題目を提出し入学している。このときから植木は日本法制を研究対象としていたのである。
植木は明治39年3月に研究科を卒業、翌40年4月に皇典講究所講師、9月に國學院大学講師となった。42年には皇典講究所にて開設された内務大臣委託の神職養成部講師、大正9(1920)年には國學院大學教授となった。
その間の大正3年1月に、植木は東京帝国大学名誉教授穂積陳重の懇望により、同氏の研究並びに著述公刊の補助を嘱託され、15年に穂積没後も遺著遺稿の整理出版に取り組んだ。この経験において、植木は穂積が長年にわたって蒐集してきた『御成敗式目』の刊本写本1,050冊の研究を委嘱され、この研究が後に『御成敗式目研究』(昭和5(1930)年、岩波書店)として刊行された。これが植木の学位請求論文となり、翌6年に文学博士の学位を取得したのであった。植木の学位取得は、大正12(1923)年の三矢重松以来のことであり、國學院大學第二号の文学博士となった。
植木の学問は、皇典講究所・國學院の学風に根ざしたものであり、戦後に本所・本学の関係が法律的に解消されるまで、長らく本学の学問を牽引したのであった。
※学報連載コラム「学問の道」(第51回)
渡邉 卓
研究分野
日本上代文学・国学
論文
「上代文献にみる「吉野」の位相」(2024/03/22)
「中世の日本書紀註釈における出雲観―『釈日本紀』にみる「出雲」の文字列から―」(2021/03/31)