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「私は作った俳句です」は、なぜ日本語としておかしいのか

日本語を言語学的に分析する ー前編ー

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文学部 教授 菊地 康人

2023年6月26日更新

 母語ではない日本語を学ぶ人が増えているなか、学習者たちにとっては、どんな点が難しいのだろうか。たとえば「は」と「が」の使い分けが難しいと聞いたことがあるんですが……と菊地康人・文学部日本文学科教授に話を聞くと、こんな答えが返ってきた。

 「『は』と『が』だけではないですけど、『は』と『が』もノンネイティブの人には難しいことのひとつですね。たとえば、かなり上達した人でも、『私は作った俳句です。見てください』みたいな文を言うことがあります。この『は』は、『が』じゃないとおかしいですね。ここまでは、日本語を母語とする人なら誰でも直せると思います。でも、どうしてですか、と聞かれたら、説明できる人は専門の教育を受けた人だけではないでしょうか」

 自分の日常にとけこんでいる言葉の仕組みを、改めて説明するというのは、意外に大変。しかし、説明できれば面白い。実際に菊地教授は、日本語学の世界に、ずっと魅了され続けている。前後編のインタビューで、日本語の仕組みに触れてみよう。

 専門を聞かれて「言語学です」と言うと、「たくさんの言葉を知っているんでしょう?」と思われてしまいます。ところが残念ながら私は、さほど言葉を知っているわけではありません(笑)。私がやっているのは、言語学の中でも日本語を言語学的に分析する学問で、「日本語学」といいます。 

 「毎日私たちは日本語を喋っているわけだから、何をわざわざ研究する必要があるんだ」と思われる方がいるかもしれません。もう少しご理解いただける方でも、「ああそうか、昔の日本語を扱っていらっしゃるんですね」とおっしゃる。ところが、私が扱っているのは、今使われている日本語なんですね。そう言うと、「じゃあ、日本語のいろんな方言を研究しているんですね」と言ってくださる方もいるんですが、私は方言の研究者でもありません。

 今こうして私が喋っているような、ごく普通に話されている日本語を研究しているんです。先ほど「日本語を言語学的に分析する」といいましたが、それは日本語の仕組みをときほぐすということです。

 その仕組みは頭の中にあって、普段は意識せずともそれに従ってことばを使って、話したり聞いたりできている。これが文法というものなんですね。しかし、頭の中に入っているその仕組みを取り出して、紙に書き出してみようとすると、これが途端に大変なんです(笑)。

 さきほどの「私が作った俳句です」の「私が」は、「私は」ではなぜだめなのでしょうか。日本語学の答えとしては、「従属節中では一般に『は』は使えないから」というものです。「私が作った」という部分は、一人前の文ではなくて、「(これは)私が作った俳句です」という、より大きい文の中の小さな文で、こういうのを従属節といいます(この例の場合は、従属節の中でも連体修飾節と呼ばれるもので「俳句」に係っています)。従属節の中では一般に「は」は使えなくて、その中の主語は「が」で示されます。

 いかがでしょうか。普段気にせずに喋っていることばでも、頭のなかにある仕組みを取り出すと、こうした説明になるんです。

 文法ではなくて意味の例をあげると、「かける」という動詞には、「壁に絵をかける」「めがねをかける」「鍵をかける」「電話をかける」「布団をかける」「心配をかける」「時間をかける」などいろんな使い方があります。辞書を引けばたくさんの意味が書かれている。では、これらに共通する意味の「コア(核)」は何なのか、と聞かれたらどうでしょうか。日本語学というのは、たとえばこんなことも考えるわけです。

 私に限らず、言語学者は、あるきっかけでこうしたことばの面白さや難しさに出会って、この方面の研究を志すのだと思います。私自身は、中学生から高校生にかけて漠然とした興味はあったのですが、大学1年生のとき、久野暲(くのすすむ)先生の『日本文法研究』(大修館書店、1973年)に出会って、一気にこの世界へと引き込まれていき、研究の道へ進んでいくことになりました。この本は50年も版を重ねている名著です。

 さきほどの「は」と「が」の話に関係して付け加えると、日本語には「は」と「が」を両方使って「何々は何々がどうこう」というタイプの文があります。たとえば「うさぎはにんじんが好きです」とか「うさぎは耳が長いです」という文です。これは「は・が構文」と呼んでいて、「XはYがZ」文と書くこともできます。

 日本語はこの「は・が文」がとても好きで、よく使っています。ただ、「は・が文」にもいろいろなタイプがあって、いまあげた2つの文は、実はタイプが違います。

  「うさぎはにんじんが好きです」の場合、「にんじん」は目的語です。普通は、目的語には「にんじんを食べます」というように「を」をつけますが、述語が一部の特定のことばの場合(「好き」もその一つです)、目的語に「が」がつくんですね。Yが目的語であるタイプの「XはYがZ」文ということになります。

 一方、「うさぎは耳が長いです」の場合は、「耳」は目的語ではない。この場合のXとYの関係は、「うさぎの耳」つまり「XのY」という関係ですね。「XのY」タイプの「XはYがZ」文、とでもいうべきものです。

 この2つの「XはYがZ」文が違う、ということを意識している日本人は、言語学者か日本語教授者でもない限り、あまりいないと思いますが、2種の「XはYがZ」文は、日本語教育では指導項目の1つです。

 もっとも、「XはYがZ」文には、この2種以外にもいろいろあって、それらもさらに細分できたり、変種のようなものが見つかったり、ほんとにいろいろあります。その一方で「XはYがZ」文全体を貫くものも見出せたりと、日本語学的にはなかなかおもしろいテーマで、私は一時期これに夢中になっていました。日本語教育ではそこまでやる必要はなくて、さきほどの2つの区別で一応十分なのですが。

 そんなことの何がおもしろいのか、と感じる方も、きっといらっしゃることでしょう(笑)。

 私は高校生のとき、学者にでもなろうかなと思う一方で、でも私のやろうとしていることはあんまり世の中の役には立たないのではないか、それでいいのかなという思いもありました。思い返せばありがたかったのが、このことを父親に話したら、学者になることをあっさりと了承してくれて、「けれど、世の中の役に立つのかどうか」という私に「いや、そんなことは気にするな」と言って背中を押してくれたことです。大学教育を受けた父でしたが、学者や教師とは無縁の人でした。でも、昔の大学教育を受けた人には、学問というものへのリスペクトがはっきりあって、学問というのは世の中の役に立たなかったとしても気にしなくていいんだという意識をもっていたんですね。

 やがて私は大学生になり、数年後には研究者として日本語学の世界に飛び込んでいきました。すると、思わぬところで、世の中のお役に立てるかもしれない機会が巡ってきたのでした。留学生の人たちへの日本語教育という、実践の場に立つことになり、気がつけばこの仕事に長い時間を過ごすことになったのです。インタビューの後編でお話ししたいと思います。

 

 

 

 

菊地 康人

論文

文法的な見方を活かす授受動詞の日本語教育設計(2023/03/31)

日本語教育の受身の指導法改善と,被害の有無の識別法-〈さし向け〉による受身の捉え直しと,その日本語学への提案-(2022/12/23)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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