久我建通が皇典講究所黎明期の難局に立ち向かったことはよく知られているものの、江戸後期の朝廷社会を生きた公家としての彼の一面には、あまり注意が向けられていない。例えば、伊勢神宮をはじめとした主要神社の祭使としての発遣や祭儀への参仕、また上卿としての関与などがあるが、なかでも石清水八幡宮関係のそれは興味深い。
いま『公卿補任』や『孝明天皇紀』などから確認される建通の勤仕には、
・臨時祭の参仕(天保6年、天保10年、弘化2〈1845〉年)
・放生会の上卿(天保6年、嘉永4〈1851〉年、安政二年)
・大嘗祭由奉幣の奉幣使(嘉永元〈1848〉年)
・正遷宮日時定上卿(安政6年)
などがある。
ところで、石清水八幡宮あるいは八幡神というと、源頼朝を輩出した清和源氏との繋がりのイメージが強いのではないか。ややもすれば武神への連想も相俟(あいま)って、八幡神はいわゆる武家源氏だけに縁あるものと考えられがちである。それは恐らく、源義家(源頼朝高祖父)が石清水八幡宮の社頭で元服し、「八幡太郎」と呼ばれたことに起因するのだろう。
しかし、本来、八幡宮という神社は、源頼信・義家父子が関係する以前、源氏全体(公家源氏諸流)に共通の氏神として崇敬を集めていた。清和源氏の専売特許であるかのような印象は、後世、清和源氏が勢を得るにおよんでそのように考えるに至ったものである。事実、平安中期の源高明の故実書『西宮記』や同じく平安後期随一の学者で大江匡房による『江家次第』では、神社奉幣について 「(石清水への奉幣使は)源氏中の四位の者」が勤めるべき旨を明記する。他氏出身の人物が起用されるのは、四位の源氏のすべてに起用し得ない事情があるときに限られていたのであり、石清水八幡宮への使は「源氏」であることが常識だったといってよい。
閑話休題。前編のとおり、建通のもともとの出自は一条家、すなわち藤原氏の出身である。石清水八幡宮の年中諸祭儀のなかでも格別に重視される臨時祭や放生会への参仕や、とくに嘉永元年の大嘗祭で由奉幣のその奉幣使となったことは、村上源氏嫡流・久我家の人間としての面目躍如であったに違いない。
すると、石清水八幡宮への奉幣使発遣が源氏の人びとから重くみられていたこと、同宮が彼らの精神的紐帯の場であったことを念頭におくならば、久我家への養子入りの時期は未詳といったけれど(前編)同宮への建通の参仕や発遣の始期、つまり天保6(1835)年(21歳)ごろこそが、その時期であると考えられないだろうか。
比企 貴之
研究分野
日本中世史、神社史、神祇信仰、神社史料、伊勢神宮、石清水八幡宮
論文
伊勢神宮の中世的変容と祭主・宮司の文書(2025/03/20)
大中臣祭主の家にかんする研究余滴-名前の「親」字の読み-(2025/03/06)