久我建通は、文化12(1815)年に誕生し、長じて久我通明の養子となり、同家を嗣(つ)いだ。明治15(1882)年に皇典講究所が創立された際、総裁に戴いた有栖川宮幟仁親王がすでに七旬余のご高齢に達しており、総指揮の仰ぎ難いことが顧慮されたため、内務大臣で皇典講究所創立に深くかかわった山田顯義とも相談のうえ、建通が副総裁として迎えられた。しかし、その後、幟仁総裁宮(1886年・79歳)、山田所長(1892年・49歳)、そして実務面の中核を担った松野勇雄(1893年・42歳)らの相次ぐ薨去(こうきょ)・急逝に見舞われ、ここに建通が皇典講究所の実質的な最高責任者として、黎明期の難局へと立ち向かうに至る(かてて加えて、財政面でも経営危機に瀕していた)。
これまで久我建通についてというと、明治期以降、とくに皇典講究所との関係構築以後の事績を中心に、だいたい上記の諸点を押さえた説明が付される程度である。一方でそれ以前における、江戸後期の公家としての活動についてとなると位官の履歴や祭儀参仕などの実積以外、あまり注意が払われていない。
そこで、改めて彼の江戸後期の動向に目を向けてみると、いくつか興味深い点があることに気がつく。
そもそも久我家とは、いわずと知れた村上源氏の嫡流の家であるが、建通の実父は一条忠良で、彼は藤原道長の流れを汲む九条家から出た一家(いわゆる五摂家の一つ)に生を享(う)けた(文化12年生)。のちに、その時期は詳らかでないもけれど久我通明の養子となり、安政3(1856)年に通明が亡くなると、建通が久我家を嗣ぐこととなった。
建通は、天保2(1831)年(17歳)の白馬節会への奉仕を皮切りとして、以後、宮廷内諸祭儀への参仕(新嘗祭や諸節会)、神社祭儀への発遣(石清水八幡宮臨時祭・放生会、神宮上卿、賀茂社臨時祭)、そして傅育にかかわる諸行事への参仕(東宮統仁(ルビ・おさひと)の東宮権大夫、有栖川宮幟仁親王の別当就任にともなう)など、文久2(1862)年(48歳)に内大臣を罷免され、身辺危機による蟄居(ルビ・ちっきょ)命令をうけて落飾するまで、実に三十余年におよび彼は公家としてあったのである。
また欧米諸国の開国・通商要求ひいては条約締結問題が焦眉の問題となるや、建通は「本国不易の法を改むべからざる」ことを奏上した、いわば気骨の縉紳(しんしん)という一面も併せもっていた。
さて、前述の建通の事歴のなかでも神社祭儀への祭使・上卿としての関与、とくに石清水八幡宮の臨時祭・放生会への発遣は、藤原氏の出自をもちながら村上源氏の久我家の養嗣子となった建通を考えるうえでまことに興味深い。