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柴田常恵 -人と学問 -

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文学部 教授 内川隆志

2023年4月10日更新

 柴田常恵(1877−1954)は、明治時代後半から昭和時代前半にかけて活躍した考古学者である。明治10(1877)年、愛知県名古屋市の浄土真宗瑞忍寺の3男として生まれ、小学校の頃より歴史に興味を示し、30(1897)年、私立真宗東京中学高等科を卒業後、私立郁文館中学を経て、34(1901)年には、台湾総督府学校講師となった。台湾で坪井正五郎博士の講演を聞いて考古学に興味を覚え、35年、坪井の勧めで東京帝国大学人類学教室雇となり、その後、同大助手として勤務した。大正9(1920)年まで『人類学雑誌』の編輯に携わり、大正6(1917)年には、『日本石器時代遺物地名表』の増補第4版を刊行し、同9(1920)年には『仏像綜鑒』を出版した。

 柴田は、大正8(1919)年に、史蹟、天然記念物の保護を目的とした「史蹟名勝天然紀年物保存法」が制定されたのを機に、帝大助手から内務省地理課に設けられた史蹟考査官として勤務し、主として諸国の国分寺阯と古墳等の調査に従事した。大正13(1924)年、東京府南多摩郡南村高ケ坂(東京都町田市高ケ坂))においてわが国初の石器時代敷石住居跡(現高ケ坂石器時代遺跡)が発見された際には、柴田が主体となって後藤守一、森本六爾、稲村坦元らと共に史跡指定に導いた。また、栃木、群馬、埼玉各県の史蹟調査顧問や埼玉、愛知、香川各県の県史編纂顧問となって地方史研究にも大いに貢献している。昭和8(1933)年、内務省に設置されていた事務の文部省への移管に伴って同職を退任し、昭和4(1929)年から着任していた慶應義塾大学講師(1943年迄)として教鞭を執る一方、石田茂作、矢吹活禅、稲村坦元らと共に古寺阯研究会を立ち上げるなど関東の古寺阯を踏査し研究を重ねたのである。戦後は文化財専門審議会委員として活躍したが、昭和29(1954)年に長逝された。

 

柴田常恵

 

 柴田は、史蹟考査官として全国に及ぶ国分寺阯及び古寺の調査を行った関係で300点をこえる多数の古瓦を蒐集していたが、晩年埼玉県秩父郡長瀞町に所在した長瀞吸古館(1963年長瀞総合博物館に改称)に寄贈し、平成25(2013)年の閉館と共に埼玉県に移された。國學院大學博物館は大場磐雄博士を介して移管された柴田の写真やフィールド・ノートなどと共に、瓦拓本5,837枚を収蔵しており、平成31(2019)年、さきたま史跡の博物館によって拓本と実物との照合がなされ、正確な出土地が特定された。現在、柴田常恵アーカイブスは、國學院大學デジタルミュージアムで写真、瓦拓本、野帳の3つのカテゴリーで公開(https://d-museum.kokugakuin.ac.jp)している。

 

学報連載コラム「学問の道」(第48回)

 
 

 

 

 

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