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国文学者・佐藤謙三の関東大震災
―少年時代の記録から―

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横浜都市発展記念館調査研究員・文学部史学科兼任講師 吉田 律人

2022年9月22日更新

 大正12(1923)年9月1日午前11時58分、神奈川県を震源とするマグニチュード7.9の地震が発生、南関東一帯は激しい揺れに襲われたほか、東京市の東部や横浜市は大火災によって焼け野原となった。現在、「関東大震災」と呼ばれるこの災害では、推計で約10万5千人が犠牲になるなど、日本史上、最も大きな被害を出した。後に国文学者として大成し、本学の学長を務める佐藤謙三も神奈川県橘樹郡保土ケ谷町(現・横浜市保土ケ谷区)の自宅で被災している。謙三はその時の様子を日記や体験記に認めており、被災地となった横浜の状況も窺える。

佐藤謙三とその家族 1927(昭和2)年頃 脇屋まり氏蔵

 当時、12歳で県立横浜第二中学校(現・横浜翠嵐高等学校)の1年生だった謙三は、弟・敬介とともに地震に遭遇、体験記に「この日は、僕の一生忘れない日だ。古今未曽と言ってもよい大地震はこの日に起ったのだ」とその衝撃を記している。強い揺れを感じた謙三が屋外に逃れると、周辺の家屋は倒潰し、濛々と砂煙を上げていた。その後、弟とともに近くの野原に避難した謙三は、そこから北東方面に位置する横浜駅周辺で黒煙が入道雲のように上がっていくのを目撃、「地震に火事はつきものだと言ふがこうも早く大きな火事になるものかと天災の恐ろしい事を身にしみておぼえた」と述べている。昼食時だったこともあり、横浜では同時多発的な火災が発生、強風に煽られて急速に燃え広がっていった。安政6(1859)年の開港以来、発展を続けてきた横浜の街は猛火に焼き払われていく。

 午後2時頃、伊勢佐木町に行っていた母・としが帰宅、同11時頃には父・謙二郎も東京の大井町から徒歩で帰宅した。この間、東の夜空は炎に照らされて真っ赤になっており、保土ケ谷でも各所で火災が発生、また、余震も続き、人々は不安を募らせていた。さらに翌2日には、さまざまな流言飛語が広まり、真っ暗になる夜にかけて人々の混乱は拡大していった。謙三はその様子を「何だか戦争のようなさわぎだ」と記録しており、鉄の棒を片手に一夜を明かしたという。以後、被災地の混乱は時間の経過とともに鎮静化、謙三も7日の日記に「だんだん、世の中がおちついてきたが、夜の番がまだ大変だ」と記している。

関東大震災を記した『佐藤謙三日記』1923(大正12)年 脇屋まり氏蔵

 全国から応援が駆けつけるなか、横浜の復旧も進んでいった。9月末、謙三は「幸は家は無事だったが、我が市は、ほとんど全滅になった」とした上で、「今月は、何もかも目茶目茶になった。世の中も一変する事だらう、記念すべし。永久に、大正十二年九月一日を」と、一カ月間の感想を日記に記している。大火災の発生と被災地の混乱、関東大震災の経験は謙三にとって生涯忘れられない出来事になったと推察できる。学報連載コラム「学問の道」(第45回)

 

 

 

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