絶滅したとされるニホンオオカミに導かれるように、山梨県丹波山村の集落支援員になり、文化財の保護やまちおこしに取り組む寺崎美紅さん。國學院大學時代に伝承文学を学んだ寺崎さんは、院友会(大学の卒業生組織)など人との繋がりに後押しされ、オオカミ信仰で知られる七ツ石神社の再建という大事業を成し遂げた。
―― 國學院大學で学ぶきっかけは
新渡戸稲造が、日本人の道徳観の核心となっている「武士道」について、西欧の哲学と対比しながら、世界に向けて解説した著作『武士道』を中学生の時に読み、日本人の精神論や死生観に興味を持った。西欧のような共通の宗教を持たない日本人の心のよりどころは何かと調べているうちに、山岳信仰や伝承、民俗・文化にたどり着いた。高校生になり、本屋で偶然手にした柳田國男の『遠野物語』にも影響を受けた。進路相談した漢文の先生に「國學院大學なら、遠野物語に書いてあるようなことを学ぶことができる」と勧められた。妖怪や神話伝承を学べる学問があることが嬉しく、進路を決めた。大学では文学部の日本文学科で伝承文学を専攻した。
―― 丹波山村での仕事を選んだ理由は
就職活動に取り組んだ時、「好きなこと」はたくさんあるけれど、「やりたい仕事」が何か分からなかった。文化をつなげていく学芸員のような仕事を何となくイメージしたが、募集がなかった。修行や哲学に興味があり出家も考えたが、何か腑に落ちるものがないかと思いながら、好きな登山に没頭した。そんな時、埼玉県秩父市の三峯神社で開催されたニホンオオカミのフォーラムに友人と参加した折、不思議な体験をした。午前4時ごろ、奥ノ院へ続く参道の先に、真っ白な大きな犬がいて、こちらをみつめていた。しばらく見つめ合った後、白犬は突然、とても高く跳躍し、参道わきの繁みに消えた。駆け寄って草むらを探したが、犬が分け入ったような跡もなく静かだった。そのフォーラムで登山仲間と知り合い、仕事について相談したところ丹波山村の人を紹介してもらう。早速村を訪れて役場の人と面談すると「村には文化財に詳しい人がいないし、山登りができる人も少ないから、卒業したら、ぜひ、きてください」と言ってもらった。3歳のころからオオカミのことが好きで、神奈川県立生命の星・地球博物館(小田原市)を家族で訪れた時、「オオカミの展示の前から離れなかった」と後で聞かされた。「絶滅」という意味もよくわからず、しかし「もう会えない」と思った覚えがあり、「かわいそう」と泣いていたという。20年経って、小田原のオオカミと三峯神社の白犬との不思議な体験が結び付き、丹波山村に導かれたようだった。
―― 七ツ石神社の再建に取り組んだ
2013年の夏、大学のフィールドワークで雲取山に登った時、道中の七ツ石神社を見つけた。戦後、少しずつ賑わいを失っていた神社は、御神体が下ろされてから、傾いたまま長らく放置されていた。オオカミであるとされている狛犬は、今にも壊れそうだった。
その後、定期的に神社を訪れ、個人的に調査を続けてきた。丹波山村に移住を決め、村の観光課に所属するようになり、これも何かの縁だと思って神社の修復を決意した。まずは、資金を工面しなければならず、村の文化財へ指定するために必要な手続きを調べた。丹波山村の文化財保護審議会を開こうとしたら、審議委員会の数名がしばらく空席になっていたので、人を探すところから始めた。その後、審議会で、七ツ石神社の文化財としての価値を説明し、文化財指定が決まり、再建が動き出した。ただ、標高約1,757メートルの七ツ石山の山頂付近に位置する神社に行くには、3時間の登山が必要で、誰に依頼し、どうやって修復作業をするのかが問題だった。
―― 修復作業の困難をどう乗り越えたのか
誰に頼めばいいのか、様々な人に聞いて回るうち、母校の國學院大學に聞いてみたらどうかとアドバイスをもらった。院友会山梨支部に相談すると、地元の宮大工を紹介された。「面白いと思えばやってくれる人だから」と言われ、伺った先で一生懸命説明すると、オオカミ信仰にも興味を持っていただき快く承諾してくれた。林業用トロッコで定員5人までの足を確保して地道に運び、解体された古い神社はヘリコプターで麓まで運んだ。道具が限られた山の上での作業と、麓の工場で作られた神社をパーツで分けてヘリで運ぶという大作戦が繰り広げられ、2018年10月20日にすべての作業が完了した。かつて祭りがあった11月7日に合わせて、修復された狛犬も山へ帰り、新しい神社が一般に公開された。
文化継承を諦めない気持ちを繋ぐ(後編)