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「しぶちか」のルーツは道玄坂にあり
戦前、道玄坂はナイトマーケットだった!

生き抜く力こそが文化の原動力に 渋谷の近現代史は「しぶちか」に宿る ~Part1~

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國學院大學非常勤講師・共同研究員 髙久 舞

2022年7月7日更新

 

  令和3(2021)年7月、「しぶちか」が生まれ変わった。

 「しぶちか」とは、渋谷駅前のスクランブル交差点の地下にある「渋谷地下商店街」のこと。さかのぼること64年前。昭和32(1957)年11月に、「しぶちか」は産声を上げる。

 「しぶちか」には、たばこ・喫煙具の「ありいづみ」、ダンスウエアの「マルコシ」、靴店「みどりや」、生花店「東京生花」といった、どこか懐かしい趣きを持つお店が並ぶ。リニューアル後も、これらのお店は健在だ。

 商業化著しい現在の渋谷とは趣を異にするその雰囲気に、「どうしてこんな空間が?」なんて首をかしげる人も多いかもしれない。誰が、どうして、どのように「しぶちか」を誕生させ、連綿と歴史は続いてきたのか――。

「「しぶちか」は、もともとは明治時代に道玄坂で発生した露店商をルーツとします。「しぶちか」の成り立ちをさかのぼると、渋谷の近代史が見えてきます」
 
 こう教えてくれるのは、帝京大学文学部日本文化学科講師で、本学兼任講師、同研究開発推進機構共同研究員 の髙久舞先生。道玄坂の露店商を濫觴(らんしょう)とする「しぶちか」は、時代のうねりに、ときに翻弄され、ときに謳歌しながら、脱皮を繰り返し、アップデートを重ねてきた。
 
 「しぶちか」の来し方行く末。2回にわたり、髙久先生の解説を交えながら追っていく。

 

 

◆ ◆ ◆

 「今ではとても賑わっている道玄坂ですが、明治時代以前はそうではありませんでした。道玄坂にも町場はあったものの、規模としては宮益坂の方が大きかったのです。宮益坂が江戸により近かったことから都市化が進展していきました。宮益坂は、江戸時代中期から大山信仰が盛んになったことで、大山街道(現在の青山通り/国道246号)の筋にあたるため町屋が形成されたという背景があります 」

 「しぶちか」に造詣の深い髙久先生は、平成29(2017)年まで國學院大學の研究開発推進センター渋谷学研究会で研究員を務め 、生家も渋谷周辺だという。幼少期から「しぶちか」を訪れていたそうで、「しぶちか」の歴史を案内するには、うってつけの人物だ。

 道玄坂の歴史は、まず宮益坂を紐解くところから始まる。

 神奈川県・丹沢山地に位置する大山には、かつて「石尊大権現」と呼ばれた大山阿夫利神社がある。農民から五穀豊穣、雨乞いの神として信仰され、商いをする人々を中心に支持を集めた。

 町人文化が盛んになることで、大山詣(おおやままいり)のような庶民のお参りが台頭し、宮益坂もその恩恵を預かるようになる。多くの人が、旅の安全を祈願するため坂の中ほどにある御嶽神社を訪れたといい、“神社の御利益で益々栄える町”=宮益坂と命名されたと言われる。こうした要因もあって、宮益坂>道玄坂という状況が、江戸時代、この一帯では続いていた。


 だが、明治時代になると、様相が変わってくる。「渋谷周辺に軍事施設が次々と作られることで人の往来が変わっていった」と髙久先生が説明するように、明治20年前後に青山、駒場野、駒沢 などに練兵場が次々と設置され、青山通り(大山街道/国道246号)は軍事的空間として人が集まるようになる。

 また、明治18年に日本鉄道品川線の停車場が渋谷に開業し、駒場・駒沢兵営郡の交通・慰安の拠点となり、明治40(1907)年には多摩川電車(渋谷―玉川)が開通することで交通の便はさらに向上する。大山街道から道玄坂を経て渋谷停車場へ至る一帯が、盛り場となっていく。
 余談だが、そうした人の流れを受けて、花街・円山町が栄えだしたのもこの頃だ。 おのずと、盛り上がりに欠けるもう一つの坂「道玄坂」へ熱視線が注がれるようになる。

 

道玄坂を盛り上げろ

 だが、ことは簡単に進まない。

 「『新修渋谷区史 中巻』に、道玄坂下で本屋を開業(明治43(1910)年)したという小林直太郎なる人物の証言が記録されているのですが、『目黒、世田谷方面の人にも頼み、毎晩一店当たり五銭の油銭を出して来て貰った』とあります。明治42年頃に、土地の有志と商業者の協議によって、道玄坂で露店を始めたようなのですが、なかなか人が集まらなかったため、油銭を出してまで誘致していたことが描かれています」(髙久先生、以下同)

 盛り場としての素地こそあるが、活況というには物足りない。しかし、ポテンシャルはある――。時代の後押しもあって、新興地・渋谷の開発は進んでいく。明治44(1911)年になると市電(渋谷―神田須田町)が開通、大正初期には渋谷駅前に二つの映画館がオープンする。

 風向きが変わってきたことが、藤田佳代著『大正・渋谷道玄坂』※1に記されている。

 〝道玄坂の夜店も、大正八年頃には溢れるばかりの人となり、今度は油銭を貰うどころか逆に露店商が場所代を払い、どこへ割当てがもらえるかと、親分の後をぞろぞろと附いて歩く始末となつた。(中略)日が暮れれば、この坂の両側五丁ばかりはまつたく露店商の世界になつて、逞(たくま)しい夜の命がここに溢れた〟※2

(たくま)


 

 「藤田佳代さんは、渋谷(大和田町)で育ち、昭和9(1934)年に道玄坂の藤田陶器店に嫁ぎます。大正、昭和の道玄坂の生き証人とも言える人物です。『大正・渋谷道玄坂』は、彼女の目を通して豊かな道玄坂の日常が描かれていて、とても面白い本です。資料とするか否かというのは学術的に難しいところがあるため一次資料とまではいかないのですが、渋谷の歴史を知るという意味では重要な一冊です」

 『大正・渋谷道玄坂』を読むと、三寸(サンズン)と呼ばれる屋台が立ち並び、道玄坂はアジアの夜市やナイトマーケットさながらの活気を生み出していたことがわかる。「逞しい夜の命」とは、言い得て妙である。

 

関東大震災と道玄坂の奇妙な関係

 「明治後期から大正における渋谷の商業発展とうまく重なったことで、道玄坂は急速に存在感を増していきます。そして、1923(大正12)年に関東大震災が発生したことで、道玄坂はさらなる発展を遂げます」

 その顕著な一例が、渋谷の百軒店だろう。もともと百軒店の地は、土地分譲を計画されていたのだが、被災した下町の老舗や有名店に分譲しようではないか――と、急遽予定を変更した背景を持つ。

 結果、焼け野原となった銀座から、資生堂や精養軒、山野楽器などの有名店が集い、人が人を呼び百軒店と呼ばれるまでに盛り上がる。その様子は、「渋谷の浅草」などと称されるほどで、作家・永井荷風は、「博覧会の売店を見るが如し」と日記にしたためているほどだ。

 

 

 「百軒店は私有地です。一方、道玄坂は道路なので公有地。公有地を使用して露店を行うため、藤田佳代さんが「親分」と書き記しているように、何かしらの許可が必要になる。百軒店(私有地)では、下町から移転してきた有名店が軒を連ね、その隣の道玄坂(公有地)では露店が展開される。今の渋谷がかわいく映るくらいの雑多感と盛り上がりだったのではないか(笑)」

 宮益坂を追い抜くほどの道玄坂の繫栄は、戦前まで続く。昭和20(1945)年5月の山の手大空襲では渋谷区内も大きな被害を受けたが、先述の藤田佳代さんの記録によれば、空襲の直前まで露店をしていることが記されている。そればかりか、円山町に関しては空襲の翌月から営業を再開し、バラックが建てられている様子も描かれている。

 この時期、「渋谷は『六家名』と呼ばれる6人の親分が仕切っていました」と髙久先生が話すように、戦前の渋谷は雑多ではあったが、統制が取れていた。

 

戦前と戦後 道玄坂の分かれ道

 しかし、敗戦を境に、道玄坂の活況は、かつての華やかな「逞しい夜の命」から、鈍色を帯びた「逞しい夜の命」へと変貌していく。ヤミ市の形成である。

 「戦後になると、露店商は現在の西武渋谷店の方まで広がっていきます。戦前は、前述の通り『六家名』が取り仕切ることで、誰がどこで夜店をするのか把握することができました。しかし、戦後になると、人やモノを求め渋谷圏外の素人露店商が渋谷へ参入してきます」

 まさしく、混乱に乗じた“どさくさ紛れ”である。戦後、ヤミ市が形成される場所は、新橋、新宿、上野、秋葉原、梅田、三宮といった鉄道のターミナル駅を主とする。当然、近代化の目覚ましかった渋谷にも、多くの人間が流れついた。

 

 

 「さらには、素人露店商のほかにも台湾や朝鮮などの住民がテキヤ組織を成していました。日本が敗戦したことで、GHQからは「(戦勝国である)連合国側と同等の待遇をすべき」と位置づけられます。実質的に治外法権であった彼らの声は大きくなり、露店においても衝突が起こるようになります。『渋谷事件』は、最たる例です」

 昭和21(1946)年7月19日。渋谷警察署前にて台湾人グループと渋谷警察が衝突し、複数の死傷者が出た。ことの発端は、渋谷のみならず「新橋マーケット」を仕切っていた松田組 と、渋谷在住の台湾人グループとの小競り合いが契機と言われている。不満を抱いた台湾人グループは、日本人の博徒や愚連隊の肩を持つ渋谷警察署の襲撃を企て、その情報を聞きつけた博徒や愚連隊が渋谷警察署に集結。『渋谷事件』は、起こるべくして発生した。

 「『渋谷事件』は、警察対台湾人グループという単純な対立構造だけではなく、露店の縄張り争いという側面も持っていました。道玄坂の入り口に、台湾グループが凱旋門のようなものを作るといった動きもあったそうです。もしかしたら、道玄坂は中華街になっていた可能性もあったんですね。それほどまでに、戦後のどさくさというのは何でもありだったのです。当然、道玄坂の露店商も影響を受けることになります」

 こうした大なり小なりのゴタゴタがヤミ市各所で発生し続けることを受け、同年8月、全国の闇市を一斉に取り締まる「八・一禁止令」が発令。先んじて新橋と渋谷では、「露店閉鎖」を命じられるなど厳しい措置が取られた。近い将来、露店はなくなる――。それは、時間の問題だった。

 このまま露店を続けていてもどうなるかわからない。戦前から道玄坂の「逞しい夜」を支えてきた人たちは、新しい時代の、新しい生き方を考えなければならなくなった。岐路を、迎えたのである。

 

※1 藤田佳代著『大正・渋谷道玄坂』(青蛙房、平成10年10月)
※2 同書 P.37-38

 

取材・文:我妻弘崇 撮影:久保田光一 編集:小坂朗(原生林) 企画制作:國學院大學

※写真の転載をお断りいたします。

 

 

 

 

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