近くて遠い? 遠くて近い? そんな親の気持ちや大学生の子どもの気持ちを考えます。
「専門って、何ですか?」
「(学部・学科の)専門って、何ですか?」。筆者が学生のための就活をしていた際、これと類似した問いかけを複数回、企業の人事課の方から耳にしました。
これは、決して大学教育を疑っての問いかけではありません。学びのスタイルへの要望でした。それを一言で言えば、「『学習』から『学修』へ」、です。
國學院大學の学生手帳(『学生生活ハンドブック』)などにも、「学習」とは記載されていません。「学修」です。
では、「学習」と「学修」は、どう違うのでしょう。
学力と結びつけて言うならば、前者は学んだ力、後者は学ぼうとする力、学ぶ力(学び方)、学んだことを活かす力と言えます。前者は習得し、積んだ知識の量の範疇です。それに対し、後者は使える知識の範疇です。
同じ「知識」でも、米語ではしばしば、前者は‘knowledge’、後者は‘information’と峻別されます。
ここで、学びのあり方をテーマにするのはなぜでしょうか。
本学学生は確かに、真面目さについては伝統的に定評があります。しかし、学力については、必ずしも誰もが自信を持っているとは言えないからです。
「自らなす力」
しかも、学力への自信の喪失は、彼らの人生の多方面に転移する傾向があります。単に学力に止まらず、就活などを含めて、他の活動分野にも消極的という負の影響を与えがちです。
「大人しくて真面目だけれど、いまいち覇気がない。この会社は私をどのように使いたいのか、と逆に質問するぐらいの気概を持つ学生さんがいても良いのでは」。これが、就活先で聞いた本学先輩の声でした。
たしかに、高度情報化社会、学術的には「脱工業化社会」(D.ベル)以前の工業化社会においては、知識の量で個人の能力が測られる傾向がありました。工業化社会では、「同じことを、同じやり方で、同時(みんな一緒)に」、上意下達(ピラミッド)方式で、業務は遂行されたのです。
日本はかつて、この点で国際的にも「エクセレント(ベストの上の最優秀)!」と評価されていました。日本の学校教育は、「そろえの教育」「‘クイズ型学力’による学歴主義」と言った負の遺産の一方で、工業化社会における優等国家の牽引車でもありました。
しかし、知識の量が指数倍的に増加する今日の情報化社会では、それでは対応できなくなりました。むしろ、それらはAIに任せて、「自ら考え、自ら表し、自ら実行する力」が求められるようになりました。総じて、「自らなす力」と言えます。
それは、まさに『古事記』を建学の理念に掲げる本学の「修理固成(つくろひかためなせ*)」の教育です。つまり、主体性保持の教育です。
(*一般的には「つくりかためなせ」。本記事では、本学古事記学センターの訓読を採っています)
「学修」は正解のない謎解き
今日、社会が、大学教育やその被教育者である学生に求めるのは、まさに「学修」なのです。百点の正解答がある高校までの受験教育とは異なるのです。「学修」は、極論すれば正解のない謎解き作業とも言えます。
日本社会が嘗て学歴主義社会だったのは、「同じことを、同じやり方で、同時(みんな一緒)に」の、工業化社会の行動原理(エトス=社会的規範)を優先していたからです。
しかし今日は、言わば「逆ピラミッド時代」。すなわち、企業の事業企画など、部下から上司に発案する時代になったのです。
どうか、「学習」だった高校時代の学力の自信の有無に拘わらず、「学びに弾けて欲しい」と願います。そういう意味で、大学の学びは、「0からの出発」なのです。
新富 康央(しんとみ やすひさ) 國學院大學名誉教授/法人参与・法人特別参事 |
学報掲載コラム「おやごころ このおもい」第11回