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折口信夫と沖縄文化―折口学の根底

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文学部 教授 小川 直之

2022年5月19日更新

 アジア太平洋戦争後、アメリカ世(ゆ)となった沖縄へ行くにはパスポートが必要となった。こうしたなかで折口信夫は、昭和21年に復刊された『時事新報』の8月29日号から3回「沖縄を憶ふ」と題して、沖縄の島びとへの想い、沖縄の民俗芸術がもつ特色などを書いている。その一節には、

我々と、島の兄弟とが、血と歴史において、こんなに親近な関係にあつたことを、本土と、島の全日本に、もつと早く学問の上から呑みこませて置かねばならなかつたのである。どうしても離れることの出来ぬ繋がりと、因縁とを、なぜはつきり告げて置かなかつたのかと言ふ後悔が、此頃頻りに私の心を噛む。

とある。これは心の奥底からの島びとや全国に向けての叫びといえる。昭和27年1月には『琉球新報』に「干瀬の白波」を寄せ、未だ行方がしれない親しい人たちに何とか想いを伝えようとしている。

大正12年「沖縄採訪記」の記載、石垣島名蔵御嶽の供物図(國學院大學折口博士記念古代研究所所蔵)
※無断転載を禁じます

 折口のこうした気持ちは、いうまでもなく自身の学問形成や組踊・舞踊・芝居、島々の民俗芸能といった沖縄芸能への深い思いに基づくといえる。柳田國男が沖縄からの帰郷後に『東京朝日新聞』に連載した「海南小記」を綴じて読み、大正10年と大正12年には、沖縄島を巡り、久高島・津堅島・伊平屋島にも渡り、さらには宮古島を経て石垣島を訪ねている。2回の民俗採訪では伊波普猷、島袋盛敏、島袋源一郎、川平朝令、末吉安恭、喜舎場永珣ら多くの人たちと交流しながら、琉球の王朝祭祀、女人司祭のノロ・ツカサ、「まぶい」という霊魂観、「すで水」という再生の水、神の嫁となる女性たちなど、「やまと」の古代とも結びつく王府の文化や民俗文化を発見する。そして、記紀や『万葉集』にある「常世」を沖縄のニライカナイと関連づけて常世論を進展させている。海彼から来訪する神が、現に八重山にはアンガマア、アカマタ・クロマタ、マユンガナシとして祭られ、こうした来訪神に「まれびと」の名辞を与え、日本人の神観念や文学・芸能の発生について壮大な理論を構築している。

折口信夫 昭和10年12月沖縄に向かう船上にて(國學院大學折口博士記念古代研究所所蔵)
※無断転載を禁じます

 沖縄には、昭和10年末から11年1月に教え子でもある院友の大城元長、島袋全幸らの招きで藤井春洋を連れて渡るが、折口は琉球・沖縄の文化に接し、これを自己の学問の中に取り込んでいくつもの文化理論を構想したといえる。折口学の根底には琉球・沖縄があるのは確かで、昭和11年5月に東京で琉球古典芸能大会を催し、琉球舞踊と組踊を国内に広く紹介したのも折口であった。学報連載コラム「学問の道」(第42回)

 

 

 

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