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創立140周年と松野勇雄の事績

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神道文化学部 教授 齊藤 智朗

2022年7月22日更新

松野勇雄

 明治15年の皇典講究所の創立にはじまる本学の歴史において、草創期の維持・発展に尽力した人物に松野勇雄がいる。

 松野は備後国(現、広島県)出身の国学者であり、神道事務局生徒寮や神宮教院本教館といった神道・国学に関する教育研究機関の創設・運営に携わった。かかる実績により、皇典講究所の創立に際して創建係に任ぜられた。

 草創期の皇典講究所において松野は、所外のさまざまな要職にあって多忙中の宍野半幹事を補佐する幹事補を務め、17年より正式に幹事の任に就いて名実ともに運営の中枢を担った。しかし経営状況は困難を極め、翌18年に初代総裁である有栖川宮幟仁親王の命を受け、本所創立の趣旨を周知すべく自ら地方を歴巡している。

 明治20年代に入り、憲法作成・議会開設に臨み日本文化を改めて重要視する風潮の高まりを背景に、初代所長に就任した山田顕義の主導で23年に國學院を設立することになった。この時松野は山田を助けて実務の中核を担い、「國學院設立趣意書」の原案を作成した。同趣意書には「国史・国文・国法」を主軸に日本文化に関する研究教育を基本に据えることが謳われた。ここで松野が説いた「国法」の理念は、桑原芳樹、さらに松尾三郎へと受け継がれ、昭和38年に創立80周年記念として法学部の開設を導くことになった。

 草創期の学問的事業の中で、『國學院雑誌』に先行する『日本文学』の発刊と、皇典講究所における『古事類苑』編纂事業は松野が中心となって果たしたものである。また、國學院での「日本道義」の講義は松野自らが担当した。

 このような本学をはじめ神道・国学に関する学校運営・教育事業に一貫して従事した松野の活動を通じて後進の育成が果たされ、日本文化に関する各学問分野で活躍し、あるいは神道界の発展に寄与する人材が多数輩出されたのである。

 明治25年の山田の急逝により、本学は以前にも増して厳しい経営状態となり、松野の苦労も一層大きくなる。翌26年、國學院の第一回卒業式が催された。松野は当時すでに健康を害していたが、初の卒業生を送り出すゆえ、体の無理を押して臨席した。そのほぼ一ヶ月後に逝去、享年42。大正11年の三十年祭に臨んで従五位が追贈されている。

 松野の伝記に、國學院第一期生で松野の薫陶を受けた三矢重松による『松野勇雄先生』がある。同書では本学における松野の功績が次の表現をもって讃えられている。

 「我が皇典講究所・國學院大學の続かん限り、先生の御名は絶えじ、先生の功は朽ちじ」

 創立50周年を迎えた昭和7年には、歴代の長のほか、本学の創設や発展に大いに寄与した人物たちの肖像写真が講堂に掲げられ、ここに松野の写真も含まれた。百周年記念館にある現在の記念講堂にもこれら肖像写真が今なお掲げられており、松野が果たした功績も創立140周年を迎える今日まで敬仰されている。学報連載コラム「学問の道」(第44回)

齊藤 智朗

研究分野

宗教学、近代神道史、近代日本宗教史

論文

「皇統の代数確定と国学」(2020/06/15)

「「神道人」から見る近代神道史―官幣大社浅間神社宮司時代における高山昇の活動・事績を中心に―」(2020/02/15)

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