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帝都にプライドを築く! 渋沢栄一ら
民間有志が邁進した創建プロジェクト

“新しい伝統”を作る!  明治神宮創建は、SDGsを見通すサステイナブルなプロジェクトだった Part1(ヒトと自然、これまでとこれから)

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明治神宮国際神道学研究所 主任研究員 今泉 宜子 さん

2021年9月28日更新

 明治神宮が、前代未聞のプロジェクトとして創建されたことを知っているだろうか?
 明治維新を機に、京都から奠都(てんと)されたかつての江戸は、新しい都「東京」と改称され、近代国家の名に恥じない首都へと転生した。激動の時代をともに生きた明治天皇に対する、民衆の思慕は計り知れないほど大きかったという。
 帝都東京に陵墓――。在京の民間有志たちはそう願ったが、天皇陵は京都・奈良を中心に西日本にしかなく、すでに京都の伏見桃山に陵墓が内定していた。

 「己は京都に生れて又京都で育つたから京都は大変好きだ、京都へ行くと東京に帰りたいとも無い気持ちがする、夫故に己は京都へ行かぬ、東京は帝都にして大切の地だから東京の地は離れない、国家の為にも離れてはならぬ」(『明治神宮奉賛会通信』第4号附録(大正5(1916)年4月))

 生前、明治天皇が宮内大臣に伝えていた言葉だという。では、「大切の地」東京に、陵墓ではなく神社として先帝を奉祀することはできないか? 明治天皇とその后、昭憲皇太后の御霊を祀る御宮として、そして新時代のランドマークとして、明治神宮創設は動き出した。
 しかし、都市化が進む東京の中心に、陵墓と遜色ないほどの神社を造営することは、暗中模索かつ前途多難の事業だった。なにより、社にふさわしい森がなかった。

 「明治神宮は、渋沢栄一をはじめとした有志の想いが結集したことに加え、気鋭の学者たちによる常識を覆す林苑計画があったからこそ鎮座にいたりました。百年の森は、明治を生きた人々の叡智によって実現し、今なお私たちに発見をもたらしてくれます」

 そう話すのは、『明治神宮:「伝統」を創った大プロジェクト』(新潮社、2013年)の著者である今泉宜子さん。都心に広がる百年の森は、この先の百年、未来まで見通して設計された永遠の森だと教える。
 明治神宮は、何をもって“前代未聞のプロジェクト”だったのか? 大正9(1920)年の鎮座祭から100年という節目の年を迎えた明治神宮。三回にわたり、「前例なき大業」を成し遂げた明治人の矜持を辿っていく。

 

 

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 明治45(1912)年7月30日、明治天皇が崩御した。

 夏目漱石は、「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時私は明治の精神が天皇に始まつて天皇に終つたやうな気がしました」と『こゝろ』の中で披瀝している。

 

 「訃報を知り、歌人の与謝野晶子も哀歌を寄せています。同時代を生きた人々にとって、明治天皇は偉大であると同時に、近しさや親しみを覚える存在だったのだと思います」

 

 『明治神宮 「伝統」を創った大プロジェクト』の著者であり、明治神宮国際神道文化研究所に奉職する今泉宜子さんは、明治の人々と明治天皇との関係性が、今の私たちが思っているよりもっと近しいものだったのではないかと語る。

 「東京に御陵を」。奠都以来のお膝下である東京で、激動、戦禍をともに生き抜いた先帝の陵墓を造営したい――。民間の有志たちから、そんな声が上がるのは時間の問題だった。崩御からわずか、二日後のことである。

 

    「時代の支柱を失ったとき、その象徴を国土に刻むといった想いがあったのではないか」(今泉さん、以下同)

 

 寄せられた多数の陳情。その陣頭指揮を執ったのが、渋沢栄一だった。“日本資本主義の父”は、驚くことに明治神宮創建においてもキーパーソンの一人だったのである。

 

 「天皇の陵墓は、京都にあって東京にないものです。新しい都である東京が、世界に冠たる都市として飛躍するためには、京都と比べても遜色ないような伝統やランドマークが必要だと考えた。渋沢とともに、娘婿であり東京市長の阪谷芳郎(さかたに・よしろう)も陵墓造営に向けて動き出します」

 

 しかし、冒頭で触れたように陵墓は京都の伏見桃山に内定していた。

 「渋沢のもとには崩御の翌日から、『もし明治天皇の亡骸が京都に帰ってしまうのであれば、自分が線路に横たわってでも止めたい』と陳情に訪れる人があったといます」と、今泉さんは当時の東京市民の熱の入りようを微苦笑交じりに説明する。そして、「陵墓が無理ならば神社を造営することはできないかと舵を切り直した。ここから渋沢をはじめとした民間有志による運動が本格化していきます」と続ける。

 

日本資本主義の父”渋沢栄一は、明治神宮創建プロジェクトでも大きな役割を担った(国立国会図書館所蔵)

 

 

「内苑」と「外苑」。渋沢栄一のグランドデザイン

 そう。明治神宮は国家主導ではなく、あくまで民間の力によって推進されたプロジェクトなのだ。渋沢ら民間有志が動いていなければ、いま、JR原宿駅の横に位置する明治神宮は、存在していなかった可能性が高い。

 水面下で、大小さまざまな駆け引きが行われていることが、「神社奉祀調査会」の報告を調べるとわかる。例えば、創建の候補地に関しても丁々発止のやり取りが交わされている。

 実に、政府に提出された明治神宮建設の請願書の数は、13候補地39件。筑波山や箱根なども立候補し、中でも圧倒的に請願数が多かったのが富士山というのは興味深い。すなわち、風光明媚な景勝地こそ明治天皇を奉祀する鎮座地に相応しい、という声が少なくなかったことがわかる。ところが、東京有志の運動は終始優勢で進む。

 

 「渋沢たちの『民間の力で帝都東京に神社を作る』という意思はすさまじいものがありました。そのため非常に早い段階から造営計画を作成し、卓越した行動力で進めていきます」

 

 その一つが、明治神宮は内苑と外苑を二対で一つとするグランドデザインだ。内苑とは、本殿を中心に社殿が並ぶ「代々木の杜」。外苑とは、明治神宮野球場などが位置する「明治神宮外苑」である。

 

鎮座直前の明治神宮参拝地図。大正9年10月25日印刷と書かれている。

 「維持していくことが大変なのではないか? と懸念する人もたくさんいたといいます。しかし、渋沢は造営方法に関して、内苑は国費でまかない、外苑は国民による献金で作ると明言しました。実際、外苑は「明治神宮奉賛会」なる民間団体が全国から募金活動を行い、建設されるにいたりました。当初の目標金額だった450万円を大きく上回る700万円が寄せられたという事実に鑑みても、いかに民間有志によって明治神宮が造営されていったかがうかがい知れます」

 

 後日譚だが、内苑・外苑完成後、阪谷芳郎は「明治神宮永遠奉祀ノ基金」を確立するために奔走する。元金には手を付けず、利子のみを利用して祭礼費および管理維持費にあてる――。この発想は、阪谷がカーネギー国際平和基金の運営概念に感銘を受けたことに起因するといわれる。明治神宮完成後も官民一体となるべくファンデーションを設立すべし、それが阪谷の願いでもあった。

 「明治神宮奉賛会」解散の際、造営事業費の収支が報告されている。理事長である阪谷が、最後の一銭まで見事に無駄にしていない姿が、奉賛会日記などから見て取れる。私欲とは無縁の事業であったことが伝わってくる。

 

 

東京に伝統とプライドと魅力をもたらすために

 話を戻そう。二対一体のグランドデザインを実現する場所はどうするのか? この点についても、すでに渋沢たちは名案を持っていた。

 

 「明治天皇が崩御する以前、もし明治50年があるならば日本大博覧会を開催する予定でした。その会場が、当時の代々木御料地と青山練兵場だった。渋沢たちは、明治神宮創建にあたり二つの予定地を応用したのです」

 

 その上で、“明治天皇の御徳を万古に欣仰するには、参拝者が訪ねやすい場所でなくてはならない”と進言する。富士山や筑波といった形勝風致ではなく、東京の由緒こそ重要ではないのか……百戦錬磨の渋沢のプレゼン。大正3(1914)年、鎮座地は東京に決定した。

 

 「なぜ渋沢たち実業家が、東京にこだわったのか。前述したように明治天皇に対する思慕や、明治天皇と東京の縁故主義は大きな理由ですが、それだけではありません。渋沢たちは、近代化著しい東京をさらに発展させ、世界に誇れる多機能的な都市にしたいと考えていました」

 

戦前の明治神宮外苑(明治神宮ご提供)

 そのために、「外苑」が必要だったという。

 

 「外苑造営に関しては、渋沢の盟友である第二代東京商業会議所会頭の中野武営らが、ビジネスの観点からも計画策定に熱心に関わりました。「アルバートホールのようなものを作りたい」といった陳情も寄せられています。外苑に何を建設するか? さかんに議論が行われています」

 

 ビジネス、外交、アート……複合的な施設を配置することで、東京の都市機能を拡張する。いうなれば、ハブとして「外苑」を機能させる。明治天皇とその后、昭憲皇太后の御霊を祀る御宮としての内苑、東京の新時代を象徴するアイコンとしての外苑。東京に伝統をもたらし、世界屈指の都市にする。明治人が、明治神宮を通してのぞき込んだ未来は、野心に満ちあふれ、東京にプライドを築くというものだった。

 

 「政府に作ってくれとお願いするのではなく、帝都の品格を自分たちで作り上げるというところに、明治の人間のこだわりを感じます。渋沢栄一も阪谷芳郎も、時代の要求を自己の要求とし、時代の希望を自己の希望とした時代の児なのだと思います」

 

 

 大正3(1914)年4月11日。昭憲皇太后が崩御したことを受け、明治天皇とともに皇后も祭神として祀られることが決まる。翌年、正式に明治神宮の創建が発表された。

 が――。懸念すべきことがあった。武蔵野ならいざ知らず、東京の中心には荘厳な神社に見合う「森」がないのだ。前例なき林苑計画。次回は、林学者たちの流汗を追う。

 

 

 

取材・文:我妻弘崇 撮影:久保田光一 編集:小坂朗(原生林) 企画制作:國學院大學

 

 

 

 

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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