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青戸波江と神社祭式

神々にひたすら「心」を寄せる

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神道文化学部 教授 齊藤 智朗

2021年9月20日更新

 青戸波江(1857〜1929)は、皇典講究所・國學院大學の祭式教員として神社祭式行事作法の基礎を築いた人物であり、今日まで神社界において多大な尊敬を集めている。

青戸波江

 青戸は出雲国意宇郡(現在の島根県松江市和多見町)に鎮座する賣布(めふ)神社社家の出身であり、幼名を礼太郎と称した。両親から日々礼法を教えられたため、将来自分をして礼の研究に従事させようとの意から「礼太郎」と名付けたのではないかとの青戸の言が残されている。松江藩校修道館で皇漢学や剣術を修め、明治10(1877)年には神宮教院本教館へと進み、卒業後は伊勢神宮に奉職した。この時の祭事への奉仕が祭式を修養する意志を固めた第一歩となった。

 明治15年の皇典講究所創立にともない、青戸は剣道師範に就任して撃剣の指導に当たった。その教授法は、多数の学生を整列させ、一つ一つの型を号令のもとに一斉に行うというもので、青戸はのちの祭式講習でも応用している。

 青戸はまた皇典講究所運営の中心人物であった松野勇雄のもと、明治23年の國學院設立に携わる。國學院設立に臨み、初代所長山田顕義は、所員一同を招集して「諸君は物乞いとなっても、國學院の維持・発展を遂げる覚悟はあるか」と問き、所員は皆一致してその決心の旨を示した。青戸はこの時の決意を常に抱き続け、後年、官国幣社宮司職への推挙の話しがあった際、この時の誓いに殉じて國學院に留まったため、松野は青戸の手を取って感涙したという。國學院草創期に青戸は同主事として学務の中心を担い、松野を補佐した。

 明治30年代に祭式教員に転任した青戸は、明治40年の「神社祭式行事作法」制定(内務省告示第76号)に際し、一貫して主たる役割を担った。「祭るべき神に心をまづ寄せて 身のふるまひは後と知るべし」などの遺詠に示されるように、ひたすら神々に「心」を寄せ、その「心」を作法にあらわす想いが、青戸により整備された神社祭式行事作法の基底をなしている。

 青戸は、全国各地に出向いて祭式講習を行い、数千人以上におよぶ神官神職を指導・育成した。また自宅の一角に家塾である顕彰塾を設け、学資に困った学生の世話を含めて、日々訓育に努めた。顕彰塾の出身者には、國學院第3期生で終戦直後の最も混迷した時期に國學院大學理事長・学長としてその維持・発展に尽力した「國學院中興の祖」と称される石川岩吉がいる。今日でも祭式教室には、青戸直筆の扁額と写真が掲げられており、祭式の修養に励む学生たちを見守っている。学報連載コラム「学問の道」(第36回)

青戸直筆の扁額と祭式の授業に臨む学生たち

 

 

 

齊藤 智朗

研究分野

宗教学、近代神道史、近代日本宗教史

論文

「皇統の代数確定と国学」(2020/06/15)

「「神道人」から見る近代神道史―官幣大社浅間神社宮司時代における高山昇の活動・事績を中心に―」(2020/02/15)

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