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祭礼は都市民の生への不安から生まれた?

ヒトと自然、これまでとこれから(笹生 衛 教授 後編)

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國學院大學博物館館長・神道文化学部教授 笹生 衛

2021年9月1日更新

  

 笹生衛・神道文化学部教授(國學院大學博物館館長)いわく、10世紀の平安京の人々は「踏んだり蹴ったり」の状況の中で生きていた。気候変動と感染症のパンデミックに揺さぶられながら、しかし、彼らは祭礼という新たな文化を生んでいったのだった。
 インタビュー前編では、科学データと歴史資料を突き合わせることで当時の現実をあぶりだしていった。この後編では、民衆を起点にしたお祭りの勃興を見ていく。私たちが知る神輿の原型は、1000年以上前、きびしい環境の中で産声を上げたようだ。

 平安京の都市民が、旱魃(かんばつ)や大雨、疫病の流行といった生命/都市の危機に瀕するなか、さまざまな社会的変化が生じていたのではないか――。インタビューの前編では、最新の気候変動データと文献史料・考古資料を総合して、こうした見方をお伝えしました。
 そしてその変化は、私が研究してきた、神祭りにおいても同じです。10世紀、平安京の都市民の神々への信仰は、大きく変化し始めます。その変化を一言でいうと、「朝廷の意向とは別に、多くの民衆が、自らの意志で特定の神々を祀り始めた」ということになるでしょう。

 ここに、二つの興味深い事件があります。一つは、『本朝世紀』※1、天慶元(938)年8月13日の記事にある山科新宮事件です。天慶と改元したのは5月で、それまでは承平8年です。『日本紀略』によれば4月15日に京で地震が発生し、余震は15日間継続。5月22日の改元を経ても、26日に大雨、河川は溢れ、6月3日に大地震が再び起こり、20日には地震とともに鴨川が氾濫、京中の家屋が流出しています。
 山科新宮事件は、こうした大混乱、いわば踏んだり蹴ったりの状況のなか、民衆の只中から起こったものでした。平安京の守り神「王城鎮護の神」として八幡神(八幡菩薩)を祀るのが石清水八幡宮で、朝廷から厚い信仰を受ける重要なお宮です。このような石清水八幡菩薩の像を、都の東、山科の道場の尼が勝手につくり、道場に安置しました。この像は多くの霊験を示したので、遠近から大勢の人々が参詣するようになる。そして、ここを山科新宮と称し、八幡様の重要なお祭り「放生会(ほうじょうえ)※2」を、石清水八幡宮と同日の8月15日に行うようになりました。
 新宮の人気は絶大で、放生会に参加する僧侶や楽を奏する楽人は、供養のものや報酬が多い山科新宮へと集中し、石清水八幡宮には集まらないという事態になってしまいます。そこで、石清水八幡宮は新宮の尼に放生会の日にちをずらしてほしいと相談。しかし、山科新宮の尼は強気で、ずらすことはできないと主張。このままでは、石清水八幡宮での放生会の執行自体が危ぶまれる状況でしたので、石清水八幡宮は山科新宮を壊し、八幡菩薩像を石清水八幡宮に遷すという強硬手段をとらざるをえませんでした。
非常に生々しい話ですが、ここから、平安京の人々が抱いていた大きな不安と、その不安を解消してくれる神への熱狂的な信仰が、朝廷とは関係なく生まれていた様子がうかがえます。
 もう一つの事件は、同じく『本朝世紀』が記す、天慶8(945)年の志多羅〔志多良〕神(したらしん)の神輿渡御です。いわゆるお神輿を担ぎ大勢の人々が付き従う、神輿渡御の原形といえるもので、これもまた興味深い。
 天慶8年の初秋、都では東西から神々が京に入ってくるという噂がたちます。やがて実際に、志多羅神などの神々が三基の神輿で移動中との報告が、摂津国(現在の大阪府)から朝廷にもたらされました。その様子は、神輿に熱狂的な群衆が群がり、「幣を捧げ、鼓を撃ち、哥儛(かぶ)羅列」して移動するというものでした。
    厳かな祭祀ではなく、不特定多数の人々が参加・観覧する賑やかな祭礼、いわば現在にまでつながってくるような、神輿とともに祭り囃子を奏でる人々が練り歩くという新たな祭りのかたちです。重要なことは、これが大きな社会不安の中で10世紀に成立したという点です。この時、志多羅神の神輿に従う人々のエネルギーは強いものだったのでしょう。それに応えるように、神輿は移動しながら数を増やし、最終的に石清水八幡宮へと入っていきました。
 神輿に付き従った人々が謳った童謡(わざうた)も記録されています。そこには「月笠着る八幡種蒔く、いざ我等は荒田開かん」とあります。ここに再び八幡神が登場します。「月笠着る」とは、ひどい旱魃の後に雨が降る予兆ということなのでしょう。旱魃で荒廃した田んぼを、種蒔く八幡神を先頭に開いていこうという農民の歌です。

 ここに登場する八幡神には、都・朝廷を鎮護するという性格だけでなく、一般の民衆を助けてくれる、いわば民衆の味方の神という性格が加わっています。それは、多くの霊験を示し、民衆の願いをかなえてくれた、山科新宮の八幡菩薩像の姿と重なります。
 また、同時期に、神の乗り物の神輿をつかう新たな神祭りのかたちが明確となり広がっていきます。平安京が発展し、都市の民衆が経済的に力を持つようになると、彼らの守り神として都の近くの有力な神々に、自分たちの生活の場においでいただく祭りが成立しました。日時を決めて、「御旅所(おたびしょ)」と呼ばれる場所に来ていただく神祭り「御旅所祭祀」の成立です。鴨川の東側、祇園社(現在の八坂神社)の神々に、平安京内の御旅所にお出でいただく祇園御霊会(現在の祇園祭)は、その典型です。祇園社の御旅所祭祀は、10世紀後半、天延2年(974)には始まったと考えられます。祇園社の神々は、もともと疫病を鎮める神々です。疫病が流行る暑い季節になると、祇園社の神々に都市の民衆が住む場所へとお越しいただくわけです。祇園社の神々は、10世紀前半の志多羅神と同様に神輿で移動しました。神輿行列の先頭で多くの人々が捧げ物を持ち、獅子やお囃子のグループが神輿を先導する様子は、12世紀後半の『年中行事絵巻』に細かく描かれています。当然、神輿行列は、都大路で都人の衆目を集めることとなりました。これが、祇園祭の風景へとつながるわけです。不特定多数の人々がにぎやかに参加し、観覧する神祭り「祭礼(さいれい)」の風景です。

『年中行事絵巻』「祇園御霊会」[岡田本](國學院大學博物館蔵)※無断掲載を禁じます

 こうした例を見てくると、平安京の都市民が生命の不安のなかで立ち上げていった神々への新たな信仰、そして祭礼の意味が理解できるはずです。
 これは決して遠い過去の話ではありません。ひとつ間違えると多くの人々が死んでしまう、あるいは自身が死の危険を身近に感じる状況。それは、現在、新型コロナウイルの蔓延の中に身を置いている私たちにとっても実感できるものです。同じ状況の10世紀、多くの人々が熱狂的に参加する祭礼は成立した。強い社会的なストレスの中で、それを解消する新たな精神性が生み出されたという点で、現代社会と共鳴するように思います。
 一方で、祭礼や神輿のように、約1000年後の現在までつづく文化のありようが、この10世紀から11世紀にかたちづくられた。10世紀の人々がつくりだした社会と文化は、新たな時代、中世(鎌倉・室町時代)への確実な道筋をつくったのです。翻って現代はどうか。現在の私たちも、当時と同じ自然災害や疫病の蔓延という環境の劇的な変化のなかで生きている。その中で、どのようなに社会生活を復元し、新たな文化を生み出していくのか。これを考えるとき、自然科学データと歴史資料が語る10世紀の社会や神祭りの実態は、大きな示唆を我々に与えてくれるのではないでしょうか。

 

※1 『本朝世紀』…平安時代末期成立の歴史書。藤原通憲撰。20巻。未定稿の承平5(935)年から仁平3(1153)年までの一部が現存している。
※2 放生会…仏教の不殺生 、不食肉の戒めに基づき、鳥魚などを野や海などに放って命を救う法会。日本では6世紀ごろにはじまり、慈悲行や災い回避のために行われた。宇佐八幡宮や石清水八幡宮などの放生会は、戦乱で死者を出した贖罪として始まったとされている。

 

 

 

笹生 衛

研究分野

日本考古学、日本宗教史

論文

『記紀』と大嘗祭—大嘗宮遺構から考える『記紀』と大嘗祭の関係—(2020/11/15)

塩津港の神と神社(2020/03/16)

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