荷田春満(1669~1736)という人の人生をたどること。これが国学の発端を知ることにもなると考えている。京都市伏見区の東丸神社。現在、春満は洛南の学問の神として知られている。私が初めて東丸神社を参拝したのは國學院大學に入学した1年生の夏休みであったから、もう35年近くもたつ。国学の四大人の一人で、学問の神であるくらいの知識しかなく、「勉強させてください」と神前で額づいたことを覚えている。今、学問、それも国学の研究を生業としようとはその時、思いもしなかったのだが。
春満は長い間、その学問の実態が知られていないのにもかかわらず、「国学の四大人」の鼻祖として尊崇の対象になってきた。伴蒿蹊の『近世畸人伝』(寛政2(1782)年)に記述された、死の直前に著述を全て焼いた、というまことしやかな伝説が百数十年間にわたって信じられてきた。しかし、「国学」の名を冠する本学に関係する人々が、春満の学問の全容解明への扉を開くことになる。皇典講究所を卒業し、幹事・常務理事を歴任した高山昇が、大正13(1924)年に官幣大社稲荷神社(現、伏見稲荷大社)宮司に就任すると、河野省三や岩橋小弥太など、本学の教員を編集委員に据え、春満の生家である東羽倉家に残されている著述・聞書類を編纂して『荷田全集』が刊行された。これは、四大人の全集のうち最も遅い刊行であった。それ以来、春満の学問の研究は、全集に依拠して行われていたが、他の三大人と比較すればいささか寂しいものであった。また、春満の学問の価値を過小評価し、「国学は賀茂真淵からはじまる」と主張した三宅清の論が第二次大戦後、定説に近い位置を占めたことも、春満にとっては幸いではなかった。
しかし、國學院大學創立120周年記念事業として始められた『新編 荷田春満全集』の編纂・刊行は、長い間の停滞を打破する大きな画期となった。全12巻の刊行により、春満の学問の全体像を初めて体系的に捉えることが可能になってきた。そこで明らかになったことは間違いなく、真淵・宣長と続く国学の道は春満によって開拓されたということである。国学の学校を作ろうとした春満の意志は、創立140年を迎えようとする本学へと確実に受け継がれている。そう確信する私たちの春満探究の道のりはまだ続いている。学報連載コラム「学問の道」(第34回)