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舞台は世界!全国の若者が集う佐渡の太鼓芸能集団

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2017年4月3日更新

「鼓童」が育んだ、佐渡島の“価値”(前編)

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鼓童の舞台。(写真提供:鼓童)

 人材不足、若手不足に直面する地方にとって、直近のテーマとなっているのが「人材づくり」だ。最近では、地域おこし協力隊などの政策によって、別の地域からの移住・定住促進が行われている。それがうまくいけば、移り住んできた人たちはその地域の人材として未来を担っていけるだろう。
 このような施策でポイントとなるのが、若者を移住・定住させるほどの“魅力”を地域が差し出せるかどうかだ。インフラが行き渡り、地域の差が生まれにくい成熟した時代だからこそ、「この地域にしかない」と思える魅力、オーセンティシティ(真正性)をともなった“本物”を感じさせる魅力を差し出さなければ、移り住みたいという欲求を引き起こすことはできない。
 なかなかハードルの高い問題だが、実は新潟県の佐渡島では、モデルケースとなる事例が起きている。太鼓芸能集団「鼓童」による活動だ。
 一体それはどんなものなのか。地域経済の専門家である國學院大學経済学部の山本健太准教授に話を聞いた。
制作:JBpress


profile

國學院大學経済学部准教授山本健太氏。博士(理学)。東北大学大学院理学研究科博士課程修了。九州国際大学特任助教、同助教、同准教授を経て現職。地理学の視点から日本の経済・地域経済の振興を研究する。「ひたすら歩き、話を聞くことで地域の経済が見えてくる」を信条に、フィールドワークを中心とした実証主義に基づく研究を続ける気鋭の地域経済専門家。

佐渡島に残る伝統が、“太鼓集団”を生み出した

──地域の資源をもとに人材を生み出す事例として、「鼓童」の活動を取り上げていきます。鼓童は、佐渡島を拠点に1981年より活動する国際的な太鼓芸能集団ですね。そもそも、なぜ佐渡島なのでしょうか。

山本健太氏(以下、敬称略):それを説明するために、まずは佐渡島の土地柄に触れておきましょう。ここはかつて、江戸時代に物資を運んだ北前船の係留地として栄えました。また、平安時代の流刑地でもあったため、京都の都文化が盛んに伝えられました。たとえば、京都に伝わる「八百比丘尼(やおびくに)」という伝説は、佐渡島にも残っています。

 通常、そういった昔の文化は時代の中で薄れていきますが、本州から離れている佐渡島には古い文化が色濃く残ります。これは文化の伝播の話で、中央から離れた地域ほど、言語や慣習などは昔のものが残りやすいんですね。加えて、離島のため人の行き来も多くありません。そのため、佐渡は「民俗・伝統文化の宝庫」と言われます。

 このような中で発展した佐渡の文化に、「鬼太鼓(おんでこ)」という太鼓の伝統芸能があります。やはり島外から伝わったもので、佐渡内で大きく5つの型がある独特の文化。しかも、地元の人しか参加が許されてこなかった神事です。これは後々のポイントとなりますが、いずれにせよ、佐渡の人にとって「太鼓は自分たちの文化」と意識するほど大切なものでした。

──もともと佐渡にはそういった伝統があったわけですね。

山本:はい。こういった背景が、佐渡島を拠点とした理由のひとつになります。

 実は鼓童が発足する前、「佐渡の國 鬼太鼓座」という前身団体が、1971年からここに拠点を置きました。これが佐渡島で活動する基礎になったわけですが、この前身団体は1981年に解体します。主宰者は佐渡を離れ、残ったメンバーで再スタートしたのが鼓童でした。メンバーは、地域を移るのではなく、引き続き佐渡島で活動する形をとったのです。


立ち上げた「研修所」が、島に若者を招くことに

──やはり佐渡島にはそれだけの魅力があったということでしょうか。

山本:そうですね。民俗の宝庫であり太鼓という伝統が根付いていること。また、豊かな自然もある。これらから、彼らは「佐渡」という土地に価値を見出していたんです。本物を感じさせる場所であり、オーセンティシティにつながりますから。

 佐渡の國鬼太鼓座は、元々、民俗学者の宮本常一の提唱により、佐渡に伝統文化を学び継承する学校を作ろうという構想に賛同した、地元の方々と島外からの若者により設立されました。

 ただし、1981年に鼓童を発足してからは、前身とはまったく違う活動方針をとります。前身団体は、佐渡島を拠点にしつつも、主宰者の意向で地域住民との接触は避けていました。ひたすら太鼓だけに向き合う。求道し続けるブランドイメージを作っていたんです。こういった活動について、住民の中には理解者もいましたが、近隣地域からは十分な理解を得られていなかったようです。

 しかし鼓童では、地域との関係構築や地域への貢献に力を入れます。やがてそれは、地域での人材づくりにまでつながっていきました。

──具体的に、どんなことを行ったのでしょうか。

山本:1986年から、彼らは地域の人の協力を仰ぎつつ、自分たちが住んでいる本拠とは別に新しいメンバーを育成する研修施設を島内に作ります。鼓童への加入を目指す若者が、全国または海外から集い、全寮制の研修所で長期間トレーニングを積んでいく。その際、研修施設として使われたのが地元の廃校でした。

──廃校を使えたということは、自治体や地域の人の理解も得られたのでしょうか。

山本:そうですね。彼らに対して、一定の理解を示す人は地元にいたと言えます。さらに鼓童は、1988年に稽古場や事務所、メンバーの住居などを併設した「鼓童村」を佐渡の南西部に作るのですが、このときも自治体が県道から予定地に通じる道路を建設するなどの協力をしてくれました。このように、鼓童は地域と融和しながら活動していきます。


太鼓集団は、今や佐渡という地域の窓口

──鼓童に入りたい若者は佐渡島に毎年やってきて、全寮制の研修施設でトレーニングをする。そして、鼓童の一員になると、そのまま島に住むという流れができたわけですね。

山本:はい。研修所は、1985年に1年ほどの研修期間で始まり、1986年からの10年間は1年制で、現在は2年制になっています。毎年10名強の若者が選考で選ばれ、2年間研修を行います。修了後、鼓童メンバーに入れるかどうかの最終選考が行われ、例年およそ0~4、5名の若者が加入しています。非常に厳しい世界ではありますが、とはいえ、これにより全国から佐渡に若者が来る形ができています。

──研修所では、どのようなプログラムが用意されているのでしょうか。

山本:太鼓の技術を養うだけではなく、いろいろな日本文化を勉強していきます。能楽や笛、唄、踊り、茶道などですね。さらに研修生は、野菜や米の栽培、日々の料理、ものづくりなども学びます。

 太鼓以外の授業では外部講師を招くことが多いのですが、大切なのは、これらの講師を島内の人にもお願いしていること。佐渡の能楽愛好家や舞踊の講師をはじめ、魚屋さんが魚のさばき方を教えたり、大工さんや指物師さんが木工を教えたりするんですね。講師にとっては、島外から来た若者に自分の技術や知識を伝える機会になっています。

 また研修所を修了後、正式メンバーとならなくても島に住み続ける人もいるので、研修の中で自然に地元住民とのネットワークを作れますよね。このように、地元の人材や資源を活用しながら、若者と地域の関係構築を図っているんです。

──現在は、どのくらいの人が鼓童のメンバーとして島に住んでいるのでしょうか。

山本:鼓童のメンバーは総勢50人ほどおり、彼らはみな佐渡島に住んでいます。島内出身者は数人で、ほとんどが外から来た人たち。鼓童のグループ内で家庭を持つ人は多いですが、中には島民と結婚したり、PTAの代表を務めた人もいるようです。

──メンバーを育成するのが主目的とはいえ、鼓童の活動は佐渡島に若者を呼び、人材をつくる一助にもなっているんですね。

山本:太鼓を持って世界を回っている鼓童が、“地域の窓口”になりつつあるということです。中でも1980年代から始まった研修所は、20年、30年の間に「鼓童の学校=佐渡」「佐渡の鼓童で学ぶ」というオーセンティシティ、その地域にしかない価値を育んだんですね。

 さらに鼓童では、ほかにもさまざまな地域貢献を行ってきました。島外から若者を呼ぶだけでなく、島の子どもにも自分たちの財産、すわなち太鼓の体験教室などを通じて、改めて地元の文化を振り返る機会を提供しています。これも、地域の人材づくりにつながるものでしょう。

 そういったことが認められ、彼らはある時、地域の伝統文化である「鬼太鼓」への参加を許されました。これらについて、次回さらに詳しく紹介します。
(続く)

 

 

 

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