ARTICLE

皇典講究所の発展と人材育成に尽力

初代総裁 有栖川宮幟仁親王

  • 全ての方向け
  • 文化
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

研究開発推進機構 助教 髙野 裕基

2021年2月18日更新

有栖川宮幟仁親王 ※無断転載を禁じます

 有栖川宮幟仁親王(文化9〔1812〕年~明治19年〔1886〕)は、皇位継承資格を有する四親王家の1つ有栖川宮家の第8代にあたり、國學院大學の経営母体であった皇典講究所の初代総裁である。

 有栖川宮家は、家学を歌道・書道として歴代天皇の和歌と書の師範を務め、特に書道は「有栖川御流」として知られている。幟仁親王は明治天皇の師範役を務められ、明治維新に際しては五箇条の御誓文を揮毫された。

 明治維新以降は、神祇事務総督、神祇事務局督として神祇行政を総括された。また、皇族中の最長老として、宮中での祭祀にはよほどの体調不良でない限り老齢に至るまで参拝され、時には明治天皇の大御手代を務められた。

 明治5年以降の国民教化運動(大教宣布運動)の不調といわゆる「祭神論争」によって神道界が二分されていた14年には、神道界統一の象徴として神道教導職総裁に勅命により推戴された。そして、総裁職就任後の同年12月1日に自ら参内して奉聞書を奉呈され、「御国体ヲ維持仕候ハ御敬神ヨリ外無之ト奉存候」と国体の基盤たる神道とその根本精神である「敬神」について上奏された。

 翌15年に国民教化運動から神官が分離されると、神道の拠点となっていた神道事務局の教育機関である生徒寮を基盤に、神職養成と日本文化の講究を担う神道・国学の学校の創設が政府・神道人・国学者らによって志向された。こうして皇典講究所の創設が導かれ、同年2月1日、明治天皇の聖旨により幟仁親王は皇典講究所総裁に就任されたのである。

 同年11月4日の皇典講究所開校式において幟仁親王は告諭を発せられ、日本の「国柄」を明らかにし(国体ヲ講明)、道徳・道義心をそなえた「人柄」を養い育む(徳性ヲ涵養)ことで、伝統文化に基づく日本の根本を究明する(本ヲ立ツル)ことが「学問ノ道」において最も重要であるとの精神を示された。この精神は、現在でも國學院大學の建学精神(神道精神)の基礎をなしている。

 なお、幟仁親王は、19年に薨去されるまで、皇典講究所の拡充発展と人材育成に尽力された。その一方で、同所総裁となられて後、改めて神道総裁にも就任され、皇典講究所や神社神道のみならず教派神道とも関係を保持されて、あまねく神道界に携わられた。

 このような幟仁親王の御事績は、建学の精神として神道精神を掲げる國學院大學の研究・教育における理念や特色、社会における役割や使命を体現しているといえよう。学報連載コラム「学問の道」(第32回)

 

 

 

このページに対するお問い合せ先: 広報課

MENU