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國學院中興の祖・佐佐木高行と国学【学問の道】

明治天皇の側近・政治家として活躍

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神道文化学部 教授 齊藤 智朗

2020年10月28日更新

 旧高知藩士で坂本龍馬らと大政奉還を画策し、戊辰戦争に際しては海援隊の残員を率いて長崎奉行所を占領する勲功をあげ、維新以降は明治天皇の側近や政治家として活躍した佐佐木高行は、明治29(1896)年から43年の逝去まで皇典講究所長(のち副総裁)および國學院長を務めた。

 高行は継嗣の高美とともに経済的に困窮していた國學院の再建を成し遂げた「國學院中興の祖」と称される。高行の孫・高美の子である行忠も、終戦前後の時期に最後の皇典講究所長や國學院大學初代理事長・学長を務めて、國學院の戦前と戦後を結ぶ役割を果たしており、佐佐木家は3代にわたって本学の維持・発展に尽くした。

佐佐木高行

 出生地の吾川郡瀬戸村(現在の高知市横浜東町)が「土佐南学の祖」である谷時中(たに・じちゅう)を奉祀する土地柄ゆえ、佐佐木高行は幼時から儒学や兵学をまなび勤皇精神を培ったと言われる。

 土佐の国学は、時中の弟子で垂加神道を唱導した山崎闇斎(やまざき・あんさい)の直門である谷秦山(たに・じんざん)が提唱した、神道を根本とし儒学を羽翼となすべきとする「日本学」を基盤に発展した。

 かかる学問的土壌のもと、「国学の四大人」に数えられる賀茂真淵や本居宣長の系統に加え、垂加神道の学統にも属した鹿持雅澄(かもち・まさずみ)は、近世における万葉研究の集大成と評される『万葉集古義』を著したとともに、敬神尊皇に基づいた「君臣の大義」を中枢とする「皇朝学」を唱えて、土佐勤王党の思想的原動力となった。高行も22歳の時に雅澄に師事して国学を修めている。

高知市横浜東町にある佐佐木高行生誕地の碑

 佐佐木高行は日露戦争時に本学で行った講話において、日本の強さの根本要因は神道を根源とする固有古来の「君臣の大義」に基づいた「日本魂」にあるとし、その「精神的教育」の必要を主唱するなど土佐国学に通底する所信を開陳している。現に「我が固有の精神的要素」を涵養する目的から、神職養成事業の拡充や道義・国史・国文を中心に教学の整備充実に取り組んでおり、本学の事業・運営に土佐国学の思想や理念が反映された面が看取できる。

 こうした本学が「国学の四大人」のみならず諸系にわたる国学の学統をも享受してきた軌跡を顧みることはまた、来るべき創立140、150周年に向けて、本学校史にさらなる広がりと深さを見出すことにもつながろう。学報連載コラム「学問の道」(第29回)

 

 

齊藤 智朗

研究分野

宗教学、近代神道史、近代日本宗教史

論文

「皇統の代数確定と国学」(2020/06/15)

「「神道人」から見る近代神道史―官幣大社浅間神社宮司時代における高山昇の活動・事績を中心に―」(2020/02/15)

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