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反骨の英語学者・佐久間信恭【学問の道】

幕末・明治・大正を生きた研究者秘話

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学術メディアセンター事務部図書館事務課主幹 古山 悟由

2020年6月30日更新

 佐久間信恭(さくま・のぶやす)は、文久元(1861)年、江戸深川森下町(東京都江東区)に旗本大久保忠恕の次男として生まれ、のち旗本佐久間信久の養子となる。実父・忠恕は長崎奉行や京都奉行を歴任し、鳥羽伏見の戦いでは陸軍奉行並として幕臣を率いた。維新後は静岡藩で小参事や市政掛を務めた。養父・信久は歩兵頭などを経て、鳥羽伏見の戦いでは歩兵奉行並として出陣するが、狙撃され、敗走先の紀州で亡くなった。

 維新後は、駿河国沼津に移住し、沼津兵学校付属小学校を修了。明治5(1872)年、横浜に出て英語修業をする。ブラウン(S.R.Brown)の塾や中村正直の同人社、東京英語学校に学び、大学予備門にも学んだが最終的に札幌農学校を卒業した(明治15年、第3期生)。卒業後は、福島県立若松中学校、福岡県立福岡中学校、西本願寺大教校、同志社普通学校などで英語を教えた。25年には、第五高等中学校(後の第五高等学校)に赴任し英語科の主任となる。同校での同僚にラフカディオ・ハーンや夏目漱石がいた。30年、退職し、帰京。35年、東京高等師範学校英語科講師。40年、國學院大學の大学部本科開設により英文学の講師に就任する。大正3(1914)年、東京高等師範学校を退職。その後、本学と明治大学で講義を持ちながら著述に専念した。9年、本学退職。11年新設の大阪外国語学校(後に大阪外国語大学、現大阪大学外国語学部)に英語科主任として赴任するが翌年没した。享年61。著書には『英名家詩散文集:附註釈』(明治32年刊)、『会話作文和英中辞林』(37年刊)、『英語おもちゃ箱』(41年刊)などがある。

佐久間信恭

 本学図書館蔵の『会話作文和英中辞林』は明治37年10月刊の第9刷である。初刷は同年7月であり、いかに同書が増刷されたかがわかる。同書の例言によれば、「英語を学ばむとする中學程度の学生の為め」「東京の学生間に行はるゝ語を標準とし」「英国に行はるゝ綴字法に従ひ」「作例は現時中学校に行はるゝ読本、会話書及作文教科書より抜き、尚諸学校入学試験問題中より採り、更に足らざるを新聞雑誌記事に求め」編纂したという。なお漢文学者、松平康国は実弟にあたる。学報連載コラム「学問の道」(第26回)

 

 

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