その業績は、一見とても不思議に思える。地を這うようなアウトローの世界を描いたブコウスキーの翻訳から、しわがれた声で歌うトム・ウェイツの訳詞。一方では、初学者へ向けた、とてもわかりやすい多くの英語学習書の執筆。その「両輪」は、実は言語に貴賎なしという、生きた哲学に裏付けられている。
山西治男・文学部教授のインタビューは、本とは無縁だった生い立ちから研究の道へと歩み始めた頃を振り返る前編に続き、この後編では研究の奥深さを語っていく。英語の授業ではなぜかアニメ『名探偵コナン』の声真似までするという愉快な山西教授の姿は、言葉の世界の楽しさを、そのまま体現しているようだ。
前編でお伝えしたような、本格的な翻訳を体験するまでは、英語がネイティブな先生に聞けば、たいがいのことはわかると思っていました。
しかしたとえば、翻訳をしていて「Morris chair」という単語にぶつかる。家具などに詳しい方でしたらご存じでしょうが、これは「モダンデザインの父」といわれるイギリスのデザイナー、ウィリアム・モリスが手がけた椅子のことで、日本でいえば「民藝」を提唱した柳宗悦のような人ですが、この椅子がいわば民衆芸術の品であることが示されています。
単に「椅子」と訳してしまえばそのニュアンスは消えてしまいます。知り合いのアメリカ人に聞いても全然知らなかった。しかし、イギリス文学を研究している日本人の知人に尋ねたら知っているという。
こうした経験を積み重ねながら、言語を扱うには、表面上のものだけでなく、固有名詞も含めたその背景のことを知らなければならない、ということに気づいていきました。文化的背景知識というものですが、インターネットによって調べ物がここまで便利になる前の時代、僕たち研究者は分野をまたいで、こうした情報や品物を交換していったものでした。
たとえば僕が翻訳をしていて、イタリアのタバコの銘柄に困っていたら、現地に行った先生が「売ってたよ」といって渡してくれる。「こちらでいうハイライトみたいなものだったよ」なんていわれて、「そうだったのかー!」と膝を打つ、というようなことが日常茶飯事だったわけですね。この苦労、画像検索もできる今ではなかなか考えられませんよね(笑)。
僕が現在所属している國學院大學にも、今の「外国語文化学科」の前身である「外国語研究室」がありました。イギリス文学は作家の丸谷才一、イタリア文学では米川良夫といった、大家の先生方が多分野にわたってたくさんいらして、何かを誰かが尋ねたら、みんなでバーッと知恵を持ち寄る――そんな伝統が、ここには息づいているような気がします。
研究者の日々というのは、そうした人と人のつながりによって転じていきます。アメリカ文学のアウトローであるブコウスキーを翻訳するようになったのも、編集者からの依頼が最初ですし、それをきっかけにミュージシャン、トム・ウェイツの訳詞も手がけるようになりました。
かつては想像もしなかったことです。ロサンゼルスまで足を運び、ブコウスキーが夜な夜な立っていたポエトリー・リーディングの世界を体験し、妻だった女性フランク・アイにも会うことができました。自分のことを「詩人」だと誇ってマイクに向かう人々に、僕が「トランスレーター(翻訳者)」だと自己紹介すると、リスペクトしてくれたことも嬉しい思い出です。
要するに、生活言語と文芸言語には区別がないのかもしれない、ということだと思います。前編で触れた辞書編纂の第一人者・堀内克明先生も、「言葉に高級も低級もない」、そして「知らなくていいことは何ひとつない」とよくおっしゃっていました。堀内先生はたまにデパートなどに足を運んで、香水売り場から洋服の売り場まで巡っていたといいます。そうした中で、「ああ、あの作品に出てきたあの表現は、このことなのか」と気づく瞬間があるわけです。小説には飲み屋の店員から船乗りまでさまざまな人が登場し、そこに出てくる固有名詞も千差万別です。まさに知らなくていいことはひとつもないんですよね。
大学院生時代から学校で教えていた経験もあり、こうした魅力をもつ英語をどうしたら苦手な人にも伝えられるだろうか、と考えるようにもなりました。これもまた編集者との出会いから、初学者の方に向けた書籍を手がけるようになっていったのです。
僕は「英語教授法」というように上から目線でいわず、「英語学習法」というようにしています。かつてサッカーに夢中になっていたときも、優れた表現で僕たちを導いてくれる先生がいたのですが、英語も同じだと思うのです。関係代名詞だ、仮定法だと、腑に落ちる前に覚えろというから嫌になる。理屈がわかるからこそ、そこからの練習も身になるわけですよね。
授業の一環で、学生と映画を英語で見ている時、「That explains it.」という表現が出てきたとします。そのまま日本語にすれば「あれは疑問点を説明している」ということですが、僕はアニメ『名探偵コナン』で、コナン君が事件解決への決定的なヒントを見つけ、メガネにキラーンと光が差す瞬間を実演します――「これでつながった」と。コナン君の声真似で「ねえねえおじさん、さっきの手袋があやしいんじゃない」などといいながら、麻酔銃で眠らせた毛利小五郎の声で推理を始めるところまでやってしまう(笑)。そんなことも交えながら、「That explains it.」という言葉の感覚と理屈を、納得してもらうわけですね。
やはり言葉には、高級も低級もないのだと思いますし、アメリカ文学の研究や翻訳、そして英語教育・英語学習という両輪も、僕の中ではどこかで「つながっている」ように感じます。玉突きのようにあちらこちらへ転がりながら、縁に導かれて、今にたどり着いた、という気がしていますね。