折口信夫から国文学の薫陶を受け大正11年に卒業した藤野岩友(1898〜1984)は、漢学の復興を標榜して創建された大東文化学院高等科の第1期生として3年の修養を重ね、昭和2年に修了した。藤野は修了と同時に、服部宇之吉、小柳司気太らによって受け継がれた國學院漢学の継承者として母校に戻った。折口の学問を中国古代に当てはめてみようとする試みは、中国古代文学を広い視野のもとに置き、その誕生の来源から展開までを追求しようとする意欲的な研究である。
その学風は、原典の一字をもゆるがせにしない着実な訓詁(くんこ)とその背後に広がる文化的な事象をいかに結びつけるかという、地道な漢文文献への対峙と自由な発想とを併せ有している。文学の源流に宗教的な祭祀を想定し、その展開として文学的な成形を示す研究は学位論文『巫系(ふけい)文学論―楚辞を中心として―』(昭和26年初版)として結実した。この研究の構想は、文学の原委(げんい)を考察するとき、中国古代のいわゆる宗教祭祀を担った「巫」「祝」「史」の役割、とりわけ「巫」の地位を明らかにすることで、文学の発想に与えた影響を解き明かそうとする斬新なものである。とくに中国文学の二大源流の一つとされ、宗教的色彩の濃い「楚辞」に当てはめ解明した。
代表的著作には、他に『中国の文学と礼俗』(昭和51年、角川書店)『楚辞』(昭和42年、漢詩大系三、集英社)『角川漢和中辞典』(貝塚茂樹・小野忍と共編、昭和34年)などがある。
輪読や輪講を中心に進められる大学院の授業は原典を精確に訓詁する手法で文字の背景にある発想を追っていき、文学が何を言おうとするかを闡明(せんめい)する手法を採った。板書は筆圧の強い楷書で、講義に必要な原典は原稿用紙に手書きされた。複写機の使用を申し出たが、数名の授業の場合には人数分をご自身が書写された。受講生には宝物を得た思いがした。ゆっくりと受講者の理解を促すように話される講義は、今もその温容とともに脳裏に蘇る。
京都大学、慶應義塾大学、明治大学、大東文化大学でも教鞭を執った。本学学生部長、図書館長、折口博士記念古代研究所長を歴任した。その住まい旧淀橋区(現・新宿区)柏木、また「歳寒くして松柏の凋しぼむに後おくるるを知る」の古語にちなみ「柏軒」と号した。学報連載コラム「学問の道」(第24回)