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派手に見えて中身は堅実、ドバイの知られざる顔

世界中の人・モノ・金が集まる理由

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経済学部教授 細井長

2016年1月18日更新

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アラブ首長国連邦(UAE)のドバイで、新年を祝い高さ世界一のタワー「ブルジュ・ハリファ(Burj Khalifa)」から打ち上げられる花火(写真は2014年1月1日撮影)〔AFPBB News〕© AFP/STRINGER

アラブ首長国連邦(UAE)の「ド派手担当」、ドバイ。今年も、世界一の超高層ビル「ブルジュ・ハリファ」では、新年を祝う花火が盛大に打ち上げられた。

ドバイの知名度と存在感はここ20~30年で一気に高まり、中東随一のビジネス拠点となった。中東といえば産油国を連想するが、ドバイはあまり石油の採れる国ではない。では、なぜここまで経済を発展させることができたのか。

國學院大學で中東経済を研究する細井長(ほそい・たける)氏の話からは、オイルマネーに頼らない、独自の成長戦略が見えてくる。
制作・JBpress

ドバイは石油に頼らぬ「貿易の国」

もともとドバイには「貿易の国」として栄えてきた歴史がある。

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現在のドバイの様子(2015年)〔AFPBB News〕© AFP/KARIM SAHIB

中継貿易の歴史は古く、インドがイギリスの植民地だった時代、イギリスから向かう船はシャルジャやドバイを経由していた。

また、天然真珠が主要産業となった時期もある。しかし、日本のミキモトが養殖真珠に成功したことや、第2次世界大戦で世界的に景気が悪くなったことから真珠産業は衰退した。

ドバイでは1966年に油田が発見され、69年から石油の生産を開始している。しかし、もともと石油埋蔵量は少なく、石油頼みというわけにはいかなかった。

そこで注力したのが中継貿易だ。ドバイには「クリーク」と呼ばれる入り江があり、ここに船が入る。かつてはイランやパキスタン、インドへ向かう「ダウ船」と呼ばれる木造船が入港していた。

1960~70年代に入ると、石油収入を投資して、大型船が入港できるようクリークをより深く掘る工事が行われた。

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ドバイのクリークにて荷物を降ろす大型船(写真提供:細井長氏)

近代ドバイの礎となった三大要素

1980年代に入ると、非石油産業の経済・産業路線はさらに強化された。なかでも「1985年」はドバイにとって特別な意味を持つ。

まず、この年の出来事として「エミレーツ航空」の設立が挙げられる。当時、国際線の飛行機は航空協定により国と国との間で路線が決まっていた。UAEの代表は首都が置かれるアブダビであり、主な国際便の発着はアブダビ国際空港が独占する状態だった。

「だったら自分の航空会社をつくろう、と誕生したのがエミレーツ航空です。当初はパキスタン国際航空からリースされた2機で運行を開始した小さな航空会社でした。最初は運用も大変だったようですが、1990年代半ばから業績も伸び、大きな国際航空会社へと成長しました」と細井氏は話す。

現在、エミレーツ航空は、世界最大の旅客機『エアバスA380』を68機も保有している。これは2015年11月時点で世界最多数だ。2015年のドバイ国際空港の旅客数は世界第1位を記録した。

一方、貿易の要である港の整備も80年代に加速し、85年には大規模な人工港が造られた。「ジュベル・アリ港」だ。

ジュベル・アリ港はドバイの中心地から車で30~40分の場所にある。大きなコンテナ船が盛んに出入し、2014年のコンテナ取扱量ランキングでは世界第9位となった。

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ジュベル・アリ港(出典:Wikipedia)

そして、ジュベル・アリ周辺には同じく85年、フリーゾーン(自由貿易地域)が開業。この「ジュベル・アリ・フリーゾーン」では、外国企業を誘致するため、100%外資系企業の参入を認めるほか、50年間の税金免除を確約するなど、さまざまなインセンティブが付けられた。

なぜオイルマネーが流れ込むのか

こうして空と海の交通を制し、満を持して外国企業の参入を待つドバイだったが、フリーゾーンの開業当初は、鳴かず飛ばずの状態だったと細井氏は話す。

「日本からはソニーが80年代後半に進出しているのですが、いかんせん当時はまだドバイの知名度もなかったので、なかなか参入する企業は増えませんでした」

ところが、1990~91年に湾岸戦争が勃発し、CNNが報道の拠点をドバイに置いたことで状況は一変する。

「世界中に『ドバイからお送りしました』と発信され、一気に知名度が上がったのです。イラクとクウェートでは戦争をしているのにドバイは安全なんだ、という認識が広がりました」

湾岸戦争の終結後には、ジュベル・アリのフリーゾーンへの外国企業の進出は加速し、2000年代までその数は順調に伸びていった。

奇しくも湾岸戦争の報道がきっかけとなり、知名度が高まったドバイだったが、もう1つドバイを取り巻く状況を変えた出来事がある。2001年の同時多発テロだ。

「それまで中東の産油国は余剰の石油資金をアメリカやイギリスで運用していました。しかし、同時多発テロ以降は、中東の湾岸やサウジに対して疑惑の目が向けられ、厳しい態度がとられるようになりました。

そのため中東の湾岸諸国は、ニューヨークのウォール街や、イギリス・シティから引き上げ、別の場所での資金運用を考えたのです。そこで白羽の矢が立ったのがドバイでした。

この頃から、ドバイはヤシの木の形をした3つの人工島(パーム・アイランド)と、世界地図の形をした島(ザ・ワールド)を造り始めるなど、さらに動きが活発化していきました。現時点で利用可能な人工島はまだ1つしかできていませんが、他にもショッピングセンターや、世界一高いビルを建てるなど・・・ここまで派手なことをするのは、投資家が乗ってくるからです」

2000年代の半ばからは原油価格も上がり、中東の豊富なオイルマネーはますますドバイへと向かうようになった。

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NASAによって2009年に撮影されたドバイ沿岸の衛星画像。1番左下がパーム・アイランドの1つ「パーム・ジェベル・アリ」。その右横がジェベル・アリ港、さらに右上が最初に出来た人工島の「パーム・ジュメイラ」。その右上に世界地図を模した人工島「ザ・ワールド」が浮かぶ。「パーム・デイラ」は、この画像右上端にあるドバイ中心市街地の沖合に建設される(出典:Wikipedia)

アブダビに頭が上がらないドバイ

ドバイを語る上で、同じくUAEの一国であり、ドバイの南に位置するアブダビの存在は欠かせない。車でわずか2時間ほどの距離にある2つの首長国の関係からは、ドバイの知られざる一面が伺える。

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アラブ首長国連邦の各首長国。黄色の部分がアブダビで、突出して面積が広い。茶色の部分はドバイ。(出典:Wikipedia)

「ドバイとアブダビは昔から伝統的に仲が良くありませんでした。元々ドバイ王族(ドバイの支配部族)はアブダビから追いやられた人たちなのです。だからドバイはアブダビとは一線を置いていました」

2000年代前半までのドバイの勢いはまさに飛ぶ鳥を落とす勢いだった。アブダビとしては、「隣で派手にやってくれれば、UAEとしても知名度が上がる」程度に思っていたようだが、ドバイはアブダビに対抗意識を燃やす部分があったという。

しかし、その関係性は、ドバイショックを機に大きく変わることとなる。花火を打ち上続けていたドバイも、2008年のリーマンショックに続き、ついに債務不履行、デフォルトに陥った。

「金融機関も国家相手には融資する上で厳しく調査することはできなかったわけです。不動産部門がバブル化したことで、逃げ足の速いマネーは去り、残ったのは多額の借金でした。その借金を肩代する形で支援してくれたのがアブダビだったのです」

世界一高いあのビルも、当初は『ブルジュ・ドバイ』という名前でした。ブルジュとは、アラビア語で「タワー」という意味、つまり『ドバイタワー』です。しかし、2010年1月の完成時には『ブルジュ・ハリファ』となっていました。ハリファはアブダビの王様の名前です。アブダビから助けてもらったことの象徴ですね」

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ドバイショック翌年2010年の建国記念日の看板。左がドバイ首長でUAE副大統領・首相のシェイク・モハメド氏、右がアブダビ首長で、UAE大統領のハリファ氏。以前はこのように2人が並ぶことは珍しかったという。看板の中央に位置するのは「ブルジュ・ハリファ」。(写真提供:細井長氏)

現地に何度も足を運んでいる細井氏は、ドバイとアブダビでは街の様子が全く違うと話す。

「どちらも豪華ですが、一言で言うと、ドバイは派手で、アブダビには貫録があります。アブダビは1970年代以降、産油国として大きく成長した国で、ゆとりがあるのでしょう。表現するのがなかなか難しいのですが、行ってみると雰囲気が全然違うんですよ。

一番分かりやすいのは道路です。ドバイの道路は比較的込み入っていますが、境界線を越えたとたん、アブダビには広々した道路があり、中央分離帯には街路樹が植えられています。中東の気候で緑を維持管理するのは大変なことです。それだけ余裕があるということでしょう」

UAEの中でドバイ、アブダビの存在感の示し方、役割は大きく異なる。「石油、政治、外交のアブダビ」「経済のドバイ」、それぞれがUAEの両輪として機能している。

今や「人・物・金」の集積地に

ドバイのフリーゾーンには多くの外国企業と金融機関が集積している。「人・物・金」の集積特区はドバイの礎であり、80年代から築いてきた先行者としての利益は大きいと細井氏は語る。

「特区を設けたのは、うまいやり方ですね。そのまま外国企業を入れると反発も生じますが、あくまでもフリーゾーンという“飛び地”に外国企業を入れている、と。現在、ドバイには10以上のフリーゾーンがあり、その多くはオフィス・ビルだけのものです。ジュベル・アリは保税地域のため、フェンスで囲まれ、出入りの管理も厳しく、まさに“飛び地”と呼ぶにふさわしい場所です」

「不動産開発や観光開発にも手を出し、ドバイショックも起こしてしまいましたが、やはりドバイの中心は貿易、物流にあります。今も港も拡張し、港のすぐ横には世界最大の空港を造っています」

原点に立ち返り、復活を成し遂げたドバイから今後も目が離せない。

 

 

 

細井 長

研究分野

国際経済学、中東地域経済

論文

カタール危機の経済的影響-貿易面から見た経済制裁の成否-(2023/09/30)

湾岸諸国における産業政策としての政府系企業育成(2020/03/25)

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