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個人の文化に対する情熱の積み上げが博物館制度を生み出してきた

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研究開発推進機構 教授 内川隆志

2019年6月6日更新

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 昔から伝わる文物をじっくり見ることができる博物館。日本においては明治以降、近代化の中で成立したシステムだというのが教科書的な説明だ。

 しかし、近代になって突然に生まれたわけではない――それ以前から文物を蒐集(しゅうしゅう)していた個人の好古家たち、そのネットワークこそが、日本における博物館制度を完成させた鍵だと考えているのが、内川隆志・研究開発推進機構教授だ。

 物を集め、文化財を愛でる人物たちは、近代になる前からいた。近世から近代へという時代の転換期を生きた好古家たちは、ダイナミックに変わりゆく社会の中で、失われてゆく物を、どのように扱い、守ってきたのか。積み上げられてきた文化を後世につなげるときに発揮されてきた“個”の力は、現代に生きる私たちにとっても学ぶべき点が多い。

 

 

 日本の近代的な博物館制度というのは、明治政府が欧化政策の中で博物館というシステムを取り入れ、殖産興業政策の装置として機能させ、成立させてきたというのが、多くの通史的な理解です。

 しかし、物に興味を持って、収集したり研究したりするという営みはヨーロッパをはじめ古今東西、普遍的なもの。実は、日本でもそうした歴史の積み重ねが近代に引き継がれているんです。

 近世と近代、ふたつの時代の“狭間”で生きた、好古家の人たちが、その営みを近代へとつなげていった――その好古家たちのネットワークこそが、私が進めている研究です。

 たとえば研究の中心として松浦武四郎という人物がいます。文化15年(1818)年生まれで、幕末から明治を生きた蝦夷地探検家で、「北海道」の名付け親として著名な人ですが、市井に下ってから全国を旅する中で、貴重な勾玉など、多くの文化財を蒐集した好古家としても有名で、世田谷の「静嘉堂文庫」には彼の集めた多数のコレクションが保存されています。

 残された日記などを丹念に調べていくと、彼を中心にした同好の士のネットワークが浮かび上がってくるんです。手紙などで情報交換をしていたり、物のやりとりもあったり、そこには同好の緻密なネットワークが広がっているわけですね。

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 このネットワークが、具体的にどのように日本の近代的な博物館制度につながっていったのか――日本の文化財保護の最初の政策である「古器旧物保存方」には守るべき文化財31種が明記されて、その内容は好古家が蒐集対象としていたモノの多くが認められていることが東京学芸大学の鈴木廣之先生のご指摘で明らかになったのですが、私がもっと詳しく調べてみると当時の好古家達の蒐集対象としたモノだけでなく、この31種の取り決めに至るには、近世以前から日本人が蒐集や研究対象としてきたモノが集約されている事に気づきました。

 また、近代日本を世界にアピールする場として明治6(1873)年に開催されたウィーン万国博覧会がありました。ウィーン万国に先立ち、予行演習として明治5(1872)年に博覧会を開催し、世界と戦える価値あるモノの選別を行ったのですが、出品された品々の多くは市井の好古家からのものでした。この「博覧会」こそが、現在の東京国立博物館の始まりです。

 ウィーン万博は、ヨーロッパに向けて日本を“発信”する絶好の機会でした。日本国内の美術品を調査・蒐集してウィーンに持っていき、売買もできるようにしたのがA.v.シーボルトだった。シーボルトといえば、出島のオランダ商館医、鳴滝塾のP.F.v.シーボルトが有名ですが、ご存知のように彼は日本地図を持ち出した咎で、一度日本を追放されてしまい、二度目の来日の際、息子のA.v.シーボルトを連れてきます。明治になって父である大シーボルトの遺志を継いでいるA.v.シーボルトは弟のH.v.シーボルトと共に近代日本の文化政策に寄与していくんですね。H.v.シーボルトは、来日直後から好古家達と交流し、多くのモノを蒐集し、研究を行い、特に考古学の分野においては、大森貝塚を始め多くの遺跡を発掘や『考古説略』を出版などを通し、日本に始めて考古学という言葉を根付かせた人物です。ヨーロッパ各地の博物館に日本の考古遺物の寄贈も行っています。

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 文化財保護やウィーン万博といった文化財を国策として扱っていく流れの中で重要な役割を担ったのが、松浦ら好古家たちのネットワークでした。彼らは、「大学南校」(江戸幕府の洋学研究所であった開成所の後継機関。東京大学の前身のひとつとなる)の教員であった町田久成たちと動きを共にしたわけですが、彼らウィーン万国博覧会の準備メンバーたちが関係を築いていったのが、当時を生きた好古家だったのです。彼らのネットワークを通じて集められたがモノが、海を渡り、今でも現地ウィーンを始め、ヨーロッパ各地に残されている事が知られています。

 こうした営みが、日本近代の博物館制度を構築していった。いわば、システム化されきっていない、好古家たち個人の力――“個”の力こそが、日本で文化財保護制度や博物館を生み出していったのです。

 彼ら個人個人の好古家は、文化を守ることにも人一倍の情熱を抱いていました。

 私が感動した松浦の日記があります。明治元(1868)年の神仏分離令を皮切りに、日本全土で廃仏毀釈が一気に進んでいきました。各地の寺に残されていた貴重な文化財、その寺の建築物自体も、どんどんと壊されていってしまった。

 松浦は、こうした廃仏毀釈の“嵐”、いわば文化財の破壊を、忸怩たる思いで目の当たりにしていたはずです。その証拠に、後年、明治12(1879)年に彼が書いている日記には、こんなくだりがあります。

 彼が奈良に旅をした時、東大寺二月堂の縁の下に、大量の廃材が積まれているのを見た。何だろうと思っていると、庭を掃除していたおじいさんが話しかけてきたそうです。いわく、その廃材は、明治初期に京都・石清水八幡宮の宝塔が壊された時、罰があたるといけなかろうということで、木津川をつたって運ばれ、保存されているものである、と。

 この話に、松浦はいたく心を動かされます。宝塔を自分が私費で再建するからいくらかかるのか、同じく廃仏毀釈でボロボロになってしまっていた東大寺南大門の仏像も私が私財で修復するから、どれぐらい費用が要るのか、といったことを、そのおじいさんに尋ねたというんです。

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 この“個”の情熱――積み重ねられ、伝えられてきた文化への思いには、並々ならぬものがあります。決してシステマティックではないところで、個人の好古家が抱いていた、文化財への保護意識。そしてこうした“個”の力が、日本近代の博物館制度をつくっていったのだ、ということを、これからも国内外の調査から明らかにしていきたいと思っています。

 

 

 

 

 

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