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國學院の学問と教育
―皇典講究所初代所長・山田顕義【学問の道】

見識と信念が示した國學院の進むべき方向

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研究開発推進機構 助教 髙野 裕基

2019年3月18日更新

 山田顕義は長州藩(現・山口県)の出身で、同藩の吉田松陰に師事し、松陰の没後は高杉晋作らと尊王討幕運動を展開した。山田は山縣有朋や前原一誠らとともに有能な軍人として知られていたが、一方で幕末期の長州藩における御楯隊時代には、兵式訓練だけでなく論語・孟子・詩経・士規七則などを隊士に講習させていたことから、〈教育〉を重視した人物であったといえる。

山田顕義

山田顕義

 岩倉使節団に随行した際、ナポレオンに関心をもって以降は法律研究を志し、帰朝後の明治7(1874)年からは司法行政に携わっていった。そして、18年に成立した第一次伊藤博文内閣では、初代司法大臣となった。

 皇典講究所と山田との関係は草創期に遡り、15年の同所創立を内務卿として支援した経緯がある。その後、司法大臣として憲法発布や議会開設に向けた準備を進めていった山田は、21年12月に皇典講究所で催された晩餐会の席上において、憲法発布や議会開設をひかえた状況下で、日本文化の究明を担う皇典講究所の有する責任の大きさを説いた。そして、山田が自ら筆をとり、当日配布された「皇典講究所改正ノ趣意」には、「今其規模ヲ大ニシ、其面目ヲ新ニシ、此所ニ普ク国学専門家ヲ招集シ、以テ本邦文学ノ淵藪トナシ、国ノ習慣風俗ヨリ政治・法律・経済・言語ノ沿革変遷等、各自長スル所ニ依リテ部門ヲ分チ、日時ヲ定メ、互ニ講究討論セシメ、苟モ我カ国文献ノ今日ニ徴証スベキモノハ、細大此所ニ於テ研究セシムベキモノトシ……」として、研究面では、従来の神道・律令・国史・歌学・有職を中心とした国学の枠を超えて、法律・政治・経済をも包含した総合的観点から我が国の国柄を研究していく方向性を示した。同時に教育面では神職養成を主たる目的としてきた同所を広く社会に役立つ有為の人材を育成するところまで拡大することを標榜した。

 これを受けて皇典講究所は山田を所長に招くべく請願し、翌年1月に山田もこれに応えて初代所長に就任した。23年7月、山田の発意により「国史・国文・国法」を考究し、海外百科の学も網羅・兼修して、知育と徳育とを合わせて行うことを謳った「國學院設立趣意書」が公示され、同年11月に國學院の開院式が挙行された(来年は國學院設立130年にあたる)。なお、これと並行して国法を軸に教授する日本法律学校(日本大学)が山田を中心に設立されている。

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 周知の通り山田は軍人・政治家であって学者ではなかったが、一貫して〈教育〉を重要とする視点は注目される。まさに、そうした山田の〈教育〉への見識と信念が本学の学問・教育の進むべき方向を明確に規定したのである。

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