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古文書に古絵図。
数十万点の資料を扱う研究開発推進機構とは

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研究開発推進機構長・文学部教授 根岸茂夫

2018年7月20日更新

    過去より伝えられた膨大な資料と向き合い、内外に向けて発信していくこと。歴史・古典を扱う大学としての研究・教育機関の本懐のひとつといえる取り組みに、真摯に向き合っているのが、研究開発推進機構だ。
    機構長を務める根岸茂夫・文学部教授が、その営みについて熱心に語ってくれた。目の前の史料を見つめる彼の眼差しは、愛情と好奇心に満ちている。大学とはいかなる場であるのか?研究者を育成するとはどのような行為なのか?蓄積された歴史的資料をオープンにしていくプロセスからは、大学における研究の“核心”が見えてくる。
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 今日は私が専門にしている江戸時代から、いくつかの史料をお持ちしました。そのうちのひとつ、これは幕末、丹波篠山藩6万石の藩主である青山忠良(ただなが)から、越前福井藩の陪臣である天方彜之助(つねのすけ)という人物へと送られた書状です。天方氏は福井藩松平家の家臣で800石ほどの、決して大きな家ではありません。
   
 注目してほしいのは差出人のサインを意味する花押(かおう)の位置です。普通、こうした書状では、大名のほうの花押が大きく、かつ陪臣である相手の名前より上に書かれるものです。ところがこの書状では、花押は大きいのですが宛名が上部に書かれ、大名の青山氏が陪臣にすぎない天方氏に対して、非常に敬意をはらっていることが、差出と宛名の位置関係からわかります。 
 
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 なぜか。それは天方氏というのは戦国時代、徳川家康に仕えて、徳川家と密接な関係をもった家であるからです。また、天方氏は青山氏と戦国時代以来、親戚関係にある家同士でありましたが、天方氏の先祖は家康が長男の信康を切腹させた事件によって家康のもとから出奔し、のち曲折を経て福井藩松平家に仕え、青山氏は家康に重用されて老中を輩出する譜代大名となりました。しかしその後も天方氏と青山氏は、徳川家をめぐる“由緒”を幕末まで大事にして共有していた、ということなのです。
 
 そしてこの書面は、「折紙」と呼ばれるかたちで送られています。いまでも「折紙つき」といいう表現が残っていますが、語源をたどると「鑑定書つき」とでもいうような意味で、格式の高い形式であるわけです。
 
 より細部に目を配れば、花押の部分を紙の裏側から見ると、縁(ふち)の内部が丁寧に墨で塗っていることがわかります。江戸期の花押の特徴ですが、輪郭を捺(お)して、あとは筆で墨を塗っているわけですね。花押は中世以前には自筆の署名でしたが、近世になると枠を木型などで押し、中を墨で塗りつぶすような形もできてきて、印鑑のようになっていきます。大名は同型で大きさが違う花押の木型を数種類持って、目上には小さな花押、家来には大きな花押を使っていました。
 
 こうしたディティールは、実際の史料に当たらなければ、わかりません。活字化されたものを読むだけでは伝わってこないものが、現物の史料にはあるのです。
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 いま見てきたのは近世の文字史料ですが、古代からのモノも含めて、さまざまな資料が國學院大學には所蔵されています。
 
 かねてより國學院大學には、昭和3(1928)年創立の考古学陳列室(後の考古学資料室・考古学資料館)や、昭和38(1963)年創立の神道学資料室(後の神道資料展示室・神道資料館)といった博物館があり、一方で戦後の昭和30(1955)年には日本文化研究所が設立され、日本文化の探究と世界文化との比較検討、および発信を担ってきました。
 
 これらを平成19(2007)年に改組したのが、研究開発推進機構です。
 
 現在では、国際交流および研究成果の公開発信事業を担う「日本文化研究所」、考古学・神道の両資料館を統合した「学術資料センター」、本学の校史・学術資産に基づいた研究を行う「校史・学術資産研究センター」の3つの本学共同利用研究機関と、建学の精神に基づく研究推進のための企画・立案や外部資金獲得と適正な運用を行う「研究開発推進センター」、学術研究の公開・発信を行う「國學院博物館」により構成されています。
 
 各機関が連携し、高度な研究の推進と若手研究者の育成、研究成果の発信を行うことで、新たな研究を開発・創造し続けることが、研究開発推進機構の目的です。
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 先ほど私の専門分野から、近世の史料をお見せしましたが、文字史料のみでも、國學院大學の中には、おそらく何十万点という未整理の史料の蓄積があります。たとえば古書店には、研究に有用そうな史料が段ボール箱に詰められて売られています。本来史料は作成され保管されていた地域や家に残すことが最良の方法ではありますが、所蔵者の家の建て替えや代替わり、所蔵者の高齢化や地域の過疎化などで、廃棄されたり売られたりしています。そうして売り出された史料のうち、私たち研究者は、あまり人の手が入っていないような史料を箱ごと購入し、少しずつでも蓄積しています。もちろん本学には、教員が研究のために収集した史料や、卒業生などから寄贈された史料が以前から膨大に存在し、未整理のままになっている史料が膨大にあり、大学の学術資産となっています。
 
 この未整理の史料を、学生や研究者の卵である院生たちと一緒に、ひとつずつ整理していきます。いつ、どこの誰の手による、どんな内容の史料なのか……。
 
 私が1日かけても50点から100点、学生でしたら10~30点ほどを整理できればいいほうです。史料整理というのは、私の代だけで終わるものではなく、これから何十年か、あるいは100年以上か、連綿と続いていく営みです。
 
 整理できた史料は図書館で閲覧することができます。また、デジタル化も徐々に進めているところです。膨大な史料を多くの方々の研究に利用していただけるように――それもまた研究開発推進機構の重要な役割のひとつだと考え、日々、史料と向き合っています。
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 そして、史料と向き合うことが、これから研究を志す学生や若い研究者たちにとって、何よりの「育成」となります。機構では常時、研究員や院生などが近世から近現代の史料を整理していますし、時々授業や調査で学生に史料を扱わせると、だんだんと学生などの目つきがかわってくるんですよ。 
 
 たとえば、史料ひとつ扱うにしても、「元の形」に戻さないといけません。先だって述べた折紙を開いた後は、元にはない折り方をして戻してはいけません。また、数枚の紙を束ねてまとめてあるような史料を、一点ずつ整理するときには「この史料は、元の形はどの史料とまとめられ、どのように重ねられていた」ということを明記しておく必要があります。
 
 史料を改ざんしてしまうとか、形態を変えてしまうということは、最もやってはいけないことです。研究というものは、良心的に行われなければいけない。その一番大事な「研究倫理」を守ることを肌で学ぶわけですね。
 
 また、実物に触れることによって、当時の人々の心情や思い、感覚というものを、活字を通じて学ぶのとはまた異なった部分で理解していくことができます。
 
 こうした積み重ねが、研究者を育てていきます。私のように何十年も史料を扱っていると、たとえばある時代のものが詰め込まれた未整理の資料箱の中に、ひとつ時代の異なるものが混じっていたとしても、紙を触っただけで「これは違う時期のものなのでは……?」とピンとくるようにもなるんですよ(笑)。
 
 資料と向き合う取り組みのなかで、資料とはどのようなものなのかを自分で考え、そして次代に伝えていくことを学んでいく。資料の現物を大学として持っているということは、研究・教育を行う上で、非常に強みになるんです。そうした研究者、さらにいえば“人間”を育てるということが、研究開発推進機構の、そして大学という機関の目指すところだと考えています。

 

 

 

 

 

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