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古典を読むことは、古典が時代時代でどう読まれてきたかを読むこと

『日本書紀』を訓むという営み ―前編―

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研究開発推進機構 准教授 渡邉 卓

2024年4月15日更新

 古典というものを考えようとすることは、その古典がどう読まれてきたのかという研究史を丹念にたどることを意味する。『日本書紀』をめぐる訓読や注釈、研究の広大なる歴史のなかで探究を進めているのが、渡邉卓・研究開発推進機構准教授だ。

 研究者としての在り方は、一朝一夕で形づくられるものではない。多くの迷いと選択、そして思わぬ出会いに導かれて、渡邉准教授の現在もある。前後編のインタビューで語られていく軌跡は、『日本書紀』をはじめとした古典研究史の深層に、やがてそっと重なるだろう。

 

 いま「専門は何ですか?」と聞かれたら、『日本書紀』を中心にした日本上代文学だと答えます。しかし私が研究し、論文を書く対象となる時代は、近世や近現代まで含めて、とても広くなっています。これは『日本書紀』や『古事記』『万葉集』を読み、注釈を加えていった人々について研究しているからで、ここまで広い対象について考えることになるというのは、かつては想像していませんでした。

 そもそも私は大学院の博士課程に進むまで、研究者になるとは思っていませんでした。高校生の頃から古文が大好きで、将来は高校の教員として古文を教えるものだと信じていたのです。高校時代の先生方が口を揃えて「君の進学先として、國學院大學以外は考えられない」というものですから、そうなのかと思って門戸を叩くところから、さまざまな出会いに導かれていくことになります。

 当初は『源氏物語』を中心に古典を学びたいと思っていたのですが、入学してからは『源氏物語』の演習の授業は抽選に落ちてしまい、また武道系部活に入部したことで、学問よりも体を動かすことが中心の生活を送っていました。それが2年時に故・青木周平先生の『古事記』の授業に出会い、上代文学の面白さに目覚めていきます。実家が神社の熱心な氏子だったこともあり、神話については一通り頭に入っていたのですが、その原型である『古事記』を学ぶこととなります。

 やがて青木先生が開催している研究会に参加し、自分の基礎力のなさに愕然としながらも、大学院の修士課程まで『古事記』の研究に取り組んでいきました。そしてそのなかで、『日本書紀』をめぐる研究史という問題に突き当たることになります。

 『古事記』の先行研究をたどっていけば、近世国学、たとえば『古事記伝』を著した本居宣長などのことも学ばなくてはならなくなる。ただ、さらに遡っていきますと、中世までは『古事記』よりも『日本書紀』のほうが積極的に読まれており、いくつもの注釈がされているということがわかるのです。卜部神道(吉田神道)において編まれた『日本書紀抄』などがその代表例です。

 中世までの『日本書紀』があって、近世国学による古典研究が花開いていったと考えるようになっていきました。

 そうした視点での研究というものは僅かに存在してはいましたが、主流ではありませんでした。これは研究として深めるべきだと覚悟して、思いきって博士課程に飛び込んでいくことになったのです。上代文学を近世から遡っていく、あるいは上代から中古・中世・近世と研究経過を追うという、歴史の時間軸を前からも後ろからも考えていくという視点は、この頃に得ることができました。

 加えて、実はこの前後の時期に、さまざまな“生の資料”に向き合う機会に恵まれていきました。まず修士課程の頃に幸運にも、國學院大學百二十周年記念事業の一環であった『新編荷田春満全集』の刊行準備作業に参加することができました。荷田春満は近世国学の重要人物であり、『日本書紀』についても、卜部氏の研究を踏まえながら新たな研究を進めた人です。そんな人物が残した文書の調査に参加させていただくという、貴重な経験をしました。

 一方で、かつては戸越銀座にあった国文学研究資料館が自宅の近所だったこともあり足を運ぶことが多く、大学院の授業でも国文学研究資料館の先生に学ぶ機会に恵まれました。そのご縁もあって、国文学研究資料館の研究プロジェクトに大学院生のときに参加させていただきました。また同時期には、宮内庁書陵部図書寮文庫で保存管理の仕事に従事するなど、大学以外で“生の資料”に触れる経験を重ねることができました。

 こうした“生の資料”と向かい合う経験を重ねるなかで、現在に至る諸本研究のノウハウを身につけることができました。通常ですと古典を勉強する場合、全集などでテキスト化・活字化されたものをもとに読んでいきます。一方の諸本研究は、さまざまな伝本といった原資料に触れることになるため、活字化される前の文字そのものに、とことん付き合う研究です。

 現代人である我々が古典を読むという行為は、誰かがそれを書き写したり印刷したりしてきたからこそ可能です。そしてその書き写した当人は、読む必要があるから後世に残したといえます。時代によって読者は変化し、その読み方も変わってきます。“生の資料”にあたれば、書き写した人の意図が、文字の造形のレベルで反映されていることがわかってきます。

 『日本書紀』のような古典を研究するということは、中身を読むだけでなく、その文献がたどってきた歴史も合わせて考察するということなのではないか──さまざまな体験を経て、私はこのように考える研究者になりました。

 そして実はこうした考え方は、『日本書紀』の成立とも深く関係しているのです。『日本書紀』は対外的な意味合いをもつ歴史書であるために漢文体で書かれており、しかも成立の直後から国内で『日本書紀』を訓む(訓読する)という営みがおこなわれてきました。こうした歴史を踏まえつつインタビュー後編では、「訓む」ということについて、改めて考えてみたいと思います。

 

渡邉 卓

研究分野

日本上代文学・国学

論文

「上代文献にみる「吉野」の位相」(2024/03/22)

「中世の日本書紀註釈における出雲観―『釈日本紀』にみる「出雲」の文字列から―」(2021/03/31)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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