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選挙制度が不均一な中、政党の意思の組織化はあり得るのか

社会で意思を集約する重要な役割「政党」を探る(後編)

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法学部 教授 上神 貴佳

2022年12月5日更新

 選挙制度の問題といえば、「一票の格差」が真っ先に頭に浮かぶ人も多いことだろう。もちろんそれも重要な問題だが、衆議院・参議院・地方議会の選挙制度が「不均一」であることによって、政党政治が期待されたように機能していないのではないか――というのが、上神貴佳・法学部法律学科教授が展開している議論のひとつだ。しかもその議論や改革は、誰か専門家に任せていいものではないという。社会を構成する私たちひとりひとりにとって切実な議論であることが、このインタビュー後編から伝わってくる。

 

 代議制民主主義における「政党」を関心の中心に置きつつ、研究を進めているということをお話ししました。政党組織の研究という分野自体は、既に100年以上の長い歴史があるものなのですが、その歴史のうえで何か意義のある研究を残せればと思っています。

 私自身の研究対象は、いくつかの柱にわかれていますが、基本としているのは実証政治学における計量分析、つまりデータを用いた統計的分析です。長らく日本の国政選挙や地方選挙を対象にしていましたが、近年では、ヨーロッパを中心とした国際共同研究のプロジェクトに参加しています。大規模なデータベースをもとに、選挙における得票変動によって政党の組織はいかなる対応をとっているのか、日本・アジアとの比較研究を進めています。

 一方で、地方政治の現場でも調査を行って、その現状と課題を考えています。たとえば岩手県釜石市や、福井県嶺南地域の基礎自治体の議会ですね。ほかにも高知県の大豊町という中山間地域――社会の担い手が高齢化した農村において、草の根レベルにおける政治的意志の組織化を調査し、自治はどのように可能なのか、検討を重ねているところです。

 インタビューの前半ですこしだけ触れた「選挙制度の不均一」は、こうしたいくつかの研究テーマのうちのひとつです。

 衆議院や参議院、そして地方議会、それらの選挙制度は不均一であるので、たとえ衆議院の選挙制度を改革しても、その効果は相殺されうる、という議論です。そもそも選挙制度が不均一なので、政党の組織化や意志の集約がどうしても難しくなっているのではないか……というところまで、インタビューの前半ではお伝えしました。

 もうすこしくだけていえば、ひとつには国政と地方レベルの選挙制度が違うのだから、衆議院だけの選挙制度が変わってもトータルで見たところの政党政治がそう大きく変化するわけはない、という話です。

 この「選挙制度の不均一」という仮説を考え始めたのは、他の先生方と一緒に取り組んだ科学研究費補助金研究「選挙制度改革の実証的評価――「選挙制度不均一仮説」と政策対抗的な政党制の条件」(2004年度~2006年度)がきっかけでした。それから現在まで、この「仮説」のもと、今後ありうる選挙制度を構想するようになっています。

 特に最近、憲法学の方面から、こうしたテーマについて論考を書いてほしいという依頼をいただくようになりました。衆参の選挙サイクルが一致しないなか、多数派が異なる「ねじれ国会」が出現するという事態が問題となってきたことを鑑み、憲法改正をすることで統治機構改革に踏み切り、衆参の関係を整理しようという話が検討されています。憲法学においても重要な論点になっているんですね。

 憲法学の専門家ではない私に、憲法学の方面からお声がけがある、という背景にはこういった状況があります。私自身の立場としては、これからお話しするように、憲法改正にまで踏み込まずとも、衆参・地方議会ふくめて選挙制度を総体として捉え改革することで、事態を打開する可能性があるのではないかと考えています。

 誤解のないようお伝えしたいのですが、私は大前提として、必ずしも選挙制度を均一にしようといっているわけではないのです。そうした理屈、物の見方があるのではないか、という仮説であるわけです。これもくだけた表現を使えば、制度と制度の噛みあわせ、食べあわせを考えてみよう、ということなんですね。

 方向性としては、ふたつの可能性があります。

 ひとつは、「民主的統制モデル」です。衆議院、参議院、地方議会の選挙すべてを小選挙区制のような多数代表の制度にして、選挙サイクルも統一させる。政党の意思の集約は大きく進み、国政から地方政治まで、多数派の勢力がコントロールするようになります。

 もうひとつは、「代表性重視モデル」です。選挙制度はすべて比例代表制にしつつ、選挙サイクルは異なるものにする。

 ここで一緒に考えたいのが、「代表性」と「答責性」という概念です。「代表性重視モデル」においては、各選挙で選ばれた議員の「代表性」はマキシマムになりますが、衆参・地方の少数意見も反映されていくので、誰が統治の責任を負うかのわかりにくく、「答責性」、つまりアカウンタビリティはミニマムになる。一方の「民主的統制モデル」は、だれが統治の責任を担うのかわかりやすいので「答責性」はマキシマムになりますが、多数意見のみが反映されていくため「代表性」はミニマムになってしまう(詳しくは近刊『講座 立憲主義と憲法学 統治機構Ⅰ』(信山社)より「統治機構と選挙制度」)。

 つまり、一長一短であるわけです。私たち有権者のひとりひとりが、こうした可能性をどう考えるのか、という問題になってくるのですね。

 選挙や政党政治というものは、その改革を専門家の手に委ねてどうにかなるものではないのではないか、という気が、私にはしています。それは一歩踏み込んでいえば、人間の理性の限界、ということです。

 誰も、改革の結果を真に見通すことはできない。私自身、物事を合理的に考えたいと願う人間ではありますが、ここまでの議論も、立証が十分に足りているかといえば心もとない。だからこそ、いろんな見方をみんなで提出し、考えを深めていく必要があるだろうと思っています。ガラリと変える前に、みんなで意見を出し合って考えてみたい。いや、私自身の自信のなさの表れかもしれないのですが……(笑)。

 やっぱり政党は大事だ、という私の信念も、どこか関係している話かもしれません。人間が人間同士の間に入っていって、みんなで納得していく――そのプロセスをかたちづくるのが、政党であるわけですから。

 

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政党という営み多方面から探求する理由

 

 

 

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