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日本の言語学習には書くことが少ない? 英語4技能でライティングを重視する理由

学びの鍵は想像力 -後編-

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文学部 教授 髙屋 景一

2022年10月17日更新

 英語学習といえば、まずは「聞く」「話す」技能という昨今の流れに、髙屋景一・文学部外国語文化学科教授は、再考を促している。もちろん、「聞く」「話す」技能は大事。一方で、じっくりと「書く」ことは、学習者の学びのあり方自体を変化させていく、重要な営みなのだという。教育と「想像力」をめぐるインタビュー前編から、言語学習を語る後編へ――別々のトピックはやがて、ひとつの大きなうねりとなる。

 

 英語4技能のことは、多くの方がご存じのことと思います。「聞く(リスニング)」「話す(スピーキング)」「読む(リーディング)」「書く(ライティング)」――特に重視されてきているのは、リスニングとスピーキングですね。

 ただ私は――英語に限らず言語教育全般において――ライティング、つまりは書き言葉の教育が重要なのではないか、と考えています。そのことについて、このインタビュー後編ではお話ししてみたいと思います。

 私は現在、外国語文化学科に在籍し、英語・英米文化と教職課程の授業を受け持っています。昨年、『大人のための英語再入門』(日本橋出版)という一般向けの書籍も出していまして、英語を中心にした言語教育は長年、まさに私の教育の“実践”の場であり続けてきました。

 言語を学ぶということは、単にその言語を習得するということに収まりません。「言語の習得は、知識の単なる量的な拡大だけでなく、理解や運用の質的変化を伴うもの」だと、私はかつて論文のなかで記したことがあるのですが、言語教育とはその生徒の学習のありよう自体を変えていく力を持つものなのです。

 そのなかで「書く」ことの学習は、単に作文の技術を向上させるといった面だけではなく、物事を深く学んでいく手段として、とても効果的なものだと考えています。

 経験がある方も多いと思いますが、自分が考えていることをレポートなどの形で書いてみると、自分がわかっていることを書いているはずなのに、他の人に伝わらないという場面に出くわすことがあります。

 「これはどういう意味なの?」と聞かれても、答えられないといった体験をして、自分でもわかっていないところがあったり、調べつくせていないところがあったり、という発見ができる。「書く」というのは、そうした気づきを促す、学習の有意義な手段です。

 もちろん、「聞く」「話す」という技能も、非常に重要です。しかし、ただ会話やディスカッションという口頭の形式だけでコミュニケーションや議論の技術を向上させようと思っても、音声はすぐに消え去ってしまうものなので、自分の間違いに気づきにくかったり、「あなたはこう言った」「いや言ってない」といった水かけ論に終わってしまうこともある。書き言葉は、ひとつのかたちとして残っていることで、客観視や省察をうながしていくことができる、という利点があるのです。

 

アメリカ留学中に履修した教育学の授業のノート。講義を録音して、何時間もかけて辞書を引きながら書き起こしました。留学最初の学期だったので、教授の講義を聞き取ってノートに取れば、学問的な内容を日常的な、比較的易しい言葉で説明しているのを学ぶことができ、英語と教育学の一石二鳥の勉強になると考えました。100分くらい(だったと思います)の講義が週に2回あったのですが、1回分のノートを作るのに数時間かかりました。今見直すと、間違いもありますが、いい勉強になったと思います。

 「理解や運用の質的変化」というのは、こうした過程のなかで達成されていきます。対象を深く掘り下げ、とことん突き詰めていくことによって、知識のひろがり、学ぶことの面白さということがわかっていきます。そうした気づきに至る手段のひとつとして、「書く」ことがある。

 だからこそ私は、「書く」教育を再評価していきたいと考えています。英語の教育はもちろん、日本語においても、現行の学校教育のなかでは「書く」機会が圧倒的に少ないわけですから。

 他方で、私自身が実践している英語の授業においては、英語のテキストを一冊、実際にみんなで読んでみるということも行っています。英語の本を、1冊でも読み切ったという経験は、大きな財産になるはずです。

 たとえば、エリオット・アロンソンという社会心理学者が著した『 Nobody Left to Hate : Teaching Compassion after Columbine 』という本を、リーディングの授業のテキストに使ったことがあります。タイトルからもわかるように、1999年に発生したコロンバイン高校銃乱射事件の“後”において、共感を考える一冊です。

 著者自身がアカデミックな書き方を好まず、話すように書く人ということもあって読みやすい一冊なのですが、それ以上に、読んでいると学生がいろいろな反応を見せます。「ここは著者の指摘する通りだと思う」「いや、ここは違う」といったように。非常に社会的なトピックについて書かれた外国語の本を読んでいくなかで、自分の意見を持つようになる。そのなかで、単語の意味なども体感的に、感覚や感情を伴って、吸収していきます。

 書くこと、そして読むことは、現行の言語教育の中では、どちらかというとあまり陽の目をみない技能ではありますが、むしろ生徒の主体的な、そして深い学びに密接に結びついているものだと、私は考えています。

 インタビューの前編からお読みいただいた方であれば、言語教育の話がどこか、「想像力」をめぐる議論と通じ合っていると感じるかもしれません。実は私にとってはもともと、まったく別個のテーマとしてそれぞれ考えてきたトピックでした。ただ不思議なことに年々、互いに相通じるものがあるように感じています。

 思えば留学生時代、私に強い影響を与えた教育学の先生は、大勢の学生を相手にまるでマイケル・サンデルのような講義をするタイプの先生でした。当初は憧れましたが、教える人間のスタイルとして、私はそうしたタイプではないことに、やがて気づきました(笑)。講義だけで学生の想像力を触発できるとか、90分間飽きさせないほど、私の話はうまくも面白くもない… だったら、アクティブ・ラーニングと呼ぶかどうかは別にして、まずは学生がテキストなりなんなりに取り組んで、それに即して的確なフィードバックやアドバイスを与えることで、彼らがさらに学びを深められる授業の方がいい。もちろん、学生が面白いとか読んでよかったと感じられるようなテキストを選んで、それを読みこむための質問やアクティビティ準備するのには、かなりの時間と労力が必要なのですが、それは私自身の勉強になりますし、学生と一緒に勉強できるというのは、いいことですよね。

 ここまでお話ししてきたような議論を、もっときちんとまとめ、教育現場の皆さんにも役立ててもらえるようなものにできるよう、残りの研究者人生で取り組んでいきたいですね。

 

 

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教育は学ぶ人の「想像力」を触発してこそ、と語る訳(前編)

 

 

 

髙屋 景一

研究分野

教育哲学、教育思想史、カリキュラム論

論文

大学生の作文指導:「教育の原理」の実践から(2024/02/20)

コロラド・カレッジのブロック方式について:大学のカリキュラムにおける時間割の重要性(2019/02/28)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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