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國學院初代院長・高崎正風【学問の道】

「躬行実践」生涯貫く

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研究開発推進機構 准教授 宮本 誉士

2020年9月16日更新

 明治23(1890)年、國學院初代院長となった高崎正風は、明治天皇の信任厚く、御歌所長として「彼の十万の御製四万の御歌は、大方翁が点し奉られしもの」と謳われた国学者・歌人である。天保7(1836)年7月28日、薩摩藩士高崎五郎衛門の子として生まれ、薩摩国学の中心人物・八田知紀に歌を学んだ。その後、京都において文久3(1863)年「八月十八日の政変」に重要な役割を果たすなど、国事に奔走した後、明治元(1868)年鹿児島に戻り、地頭職を務めた。地頭時代には、教育に注力し、『古語拾遺』、『古事記』、『日本書紀』、四書五経などをテキストとして掲げ、「躬行実践(きゅうこうじっせん)」(「学則」)を旨とする垂水学校を設置した。

 4年に左院少議官、7年に左院財務課長、8年侍従番長、9年歌道御用掛兼勤、11年文学御用掛、19年御歌掛長を経て、21年御歌所長、22年には宮中顧問官となる。

 そして、23年11月19日には、山田顕義の懇請により、皇典講究所を母体とする國學院初代院長に就任する。当時、司法大臣で、皇典講究所初代所長であった山田は、時勢に鑑み、皇典講究所の拡張を企図して、規則を改正し、学術の討議議論、公開講演を行って広く学術の普及啓蒙に当たるとともに、「生徒養成」を行うことを掲げ、國學院設立に奔走した。その背景には、大日本帝国憲法発布、帝国議会開設に伴う立憲政治の運用に基礎を与える日本の古典・歴史の研究を行い、国家の基礎を固める教育が必要であること、その任務の一端は皇典講究所が負うべきであるという山田の考えがあった。

國學院第1回卒業式時の集合写真(一部)に納まる高崎正風(右から4人目)

 皇典講究所を母体として、23年に設立された國學院は「国史・国文・国法ヲ攻究」し、「海外百科ノ学モ網羅兼修」して、智育と徳育とを併せ行うことが設立の趣旨とされ(「國學院設立趣意書」)、11月22日には開院式が挙行された。その3年後、26年7月7日には第1回卒業式が行われ、高崎は國學院で学んだことを栄誉とし、「世に処す」こと、戒慎と励精を期待することを式辞で述べ、卒業生を激励している。

 26年12月に高崎は初代院長を辞することとなるが、御歌所長としての責務を継続して果たすとともに、教育勅語の実践を目途とする彰善会・一徳会を組織し、「一身を捧げても此事業の目的を達せむと思へり」と述べて、45年2月に生涯を終える直前まで教育に従事することとなる。國學院長時代を含め、学んだことを「躬行実践」すること、これが高崎の生涯を貫く学問の目的であったと考えられる。

 先人の足跡の積み重ねを基に、本年、國學院設立から130年を迎える。この節目にあたり、稽古照今、國學院における「学問ノ道」を今一度顧みることとしたい。学報連載コラム「学問の道」(第28回)

 

 

宮本 誉士

研究分野

近代日本思想史,国学

論文

「官幣大社霧島神宮列格の背景と経緯及び待遇向上運動」(2020/02/15)

「井上孚麿の新体制批判と天皇親政論」(2019/09/30)

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