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「ねぶた」は夏バテ退治の行事だった!?

夏祭に込められた意味を考える國學院大學・小川直之教授の民俗学への招待

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文学部教授 小川直之

2014年7月16日更新

七夕と聞くと「ささの葉、さらさら~」で始まる唱歌「たなばたさま」と共に、色紙で飾りつけられた竹飾りが頭に思い浮かぶ。夏の夕暮れ時、短冊に願い事を書いて飾りつけ、「織り姫と彦星が出会えますように…」と願いながら夜空を見上げる行事は、子どもにとっても1年に一度のささやかな楽しみだった。そんなかわいらしい七夕と、巨大な山車燈籠の雄壮さを競い合う青森のねぶた祭が同じ起源の歳時だというのをご存じだろうか?

もともとは中国から伝えられた七夕は、日本の季節感や独自の文化を取り入れながら、地方に伝わり、多様に発展していったそうだ。その意味に込められた思いを知ると、夏の祭がますます面白く見えてくるに違いない。國學院大學小川直之教授の民俗学の特別講義にようこそ!
制作・JBpress

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國學院大學 文学部教授
小川直之

ささ飾りは寺子屋を通じて広まった日本オリジナル

「七夕」の伝承で最も古い要素は中国から伝えられた牽牛・織女の恋物語。「万葉集」には七夕歌が100首以上も収められていますが、その多くが、二星の恋物語です。万葉歌人にとっても、年に一度の逢い引きは、ロマンチックな題材と映ったに違いありません。

同じく、中国から伝わってきた7月7日の「乞巧奠(きつこうでん)」の行事も日本に取り入れられました。「乞巧」は、「巧みを乞う」つまり、技芸の上達を願う意味。「奠」はお供物です。織女の物語にちなんで女性は裁縫・機織り上達を、また、教養としての和歌や歌舞音曲の上達を男女とも祈りました。そこから派生して、七夕には歌会が開かれるようになりました。室町時代には梶の葉に和歌を書いて、天に届くようにと、屋根の上に飾ったようです。

そうした上流階級の行事が、庶民のイベントになり、今のような竹飾りになったのは、江戸の中期以降のこと。

江戸中期、「寺子屋」とか「手習い所」といった読み書きを勉強する場所が、町や村のあちこちにできるようになり、お師匠さんが七夕の時期になると、子どもたちに万葉集や古今集の七夕歌を書かせました。かつての歌人たちは技芸の上達を願って歌を詠み、江戸になるとそれが手習いのお手本となり、やがては短冊に願文を書くようにと少しずつ変容していったのです。手習いをした短冊を飾るには、日本人にとって最も身近な植物であった竹が利用されるようになりました。今、私たちが七夕と言って真っ先にイメージする竹飾りは寺子屋が普及させたわけです。

お盆の行事と七夕が融合

七夕行事にはお盆の要素も取り入れられています。もともと、七夕はお盆の入りのちょうど一週間前に当たり、時期的には隣接していることが関係しています。

京都で15世紀の半ばに「風流燈籠(ふりゅうどうろ)」というものが作られるようになりました。御所の近くに住む町人・農民が趣向を凝らした燈籠をこしらえて、御所に奉納したものです。「風流」は「人を驚かせる」「楽しませる」というニュアンスで、お盆に帰ってくるご先祖様の霊を楽しませ・慰めるという意味合いがあったようです。

この行事が、若狭路から北へ北へと伝わっていく過程で、七夕行事へと変化していきました。秋田県湯沢市の「七夕絵どうろう祭」、秋田市の「竿灯祭り」など、東北各地には七夕の時期に燈籠を飾る行事が点在しています。

青森の「ねぶた祭り」も同じ流れをくむ、お盆と七夕が入り交じった行事なのです。行燈の大きさ、雄壮さを競うのは、風流燈籠は「驚かせる・楽しませる」の精神を引き継いでいるのかもしれません。

夏バテ退治で「合歓の木」を流す

ところで「ねぶた」という言葉の意味をご存じでしょうか?もともとは「ねぶたい=眠たい」からきている言葉です。旧暦の7月7日は、立秋の後、現在で言う8月の上旬です。暑さのピークを越えて、夏バテが出てくる時期です。その症状の代表的なものが、疲れによる睡魔です。

そこで、七夕の時期に「合歓(ねむ)の木」に睡魔をつけて流すということが、日本各地で行われていました。かつては、この行事を「ねぶた流し」と呼んでいたのですが、京都から伝わってきた「風流燈籠」を飾るイベントが大々的にくっついて、いつのまにか燈籠の方を「ねぶた」と呼ぶようになったと考えられています。

消費の発想から、コミュニティ再興へ

七夕も含めて、もともと「歳時」は家庭や地域で行われてきたものでした。ところが、商業振興の中で、戦後は大規模化・イベント化が進みました。

関東地方では、神奈川県平塚市の七夕祭が有名ですが、実は、歴史は意外と浅く、戦後の商業復興策として始まったものです。神奈川県西部は田園地帯なので、「田植えが終わって一段落した時期にみんなが集まれるイベント」という時期的な制約があり、新暦の7月7日の七夕に役所や商工会が目を付け、それが大成功したわけです。平塚に限らず、現在の大きなお祭りはかつての「歳時」というよりも、商業振興的な色彩で大規模化してきたものが多いようです。

もちろん、イベント化することで集客して、地域経済を潤した一面もあるのですが、観光主義・商業主義、つまり消費の発想はいつかは飽きられるかもしれないというリスクと隣り合わせです。大勢の人が集まればお祭りが賑やかになって万々歳だけど、大量のゴミが残されたり、マナーを守らない人によって町が荒らされたりと、負の側面も意識されるようになっています。

期せずして、2011年3月11日の東日本大震災はそうした商業主義の流れを見直すきっかけとなりました。地域で受け継がれてきた無形文化を核としてコミュニティを再興しようという動きも出ています。時代とともに、生活様式や思考は少しずつ変わっていきますが、「季節感」や「伝承」「歳時」は人間が生きていく中で生活に潤いをもたらしてくれる大切なものです。今一度、夏の祭りの本来の意味を考え直してみてはいかがでしょうか。

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神奈川県大磯町西小磯の七夕。月遅れで8月6・7日に行われている。子どもたちが七夕の竹飾りを持ち、ところどころで竹を振って祓って廻る。これも地区に災難などがないようにという祈願といえる。

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