近くて遠い? 遠くて近い? そんな親の気持ちや大学生の子どもの気持ちを考えます。
入学おめでとう
「『入学おめでとう』と、私は敢(あ)えて言わない」
これは入学祝いの席では場違いの言葉かもしれません。しかし、これは、入学に浮かれず見聞を広め、充実したキャンパスライフを送って欲しいという願いからの贈り言葉なのです。
実際、未(いま)だ入試に重きを置く「入り口評価」「学歴主義社会」が残存する日本に対して、卒業時にどれだけ必要な能力を身につけたかで人物評価する「出口評価」「資格社会」の米国では、一般に入学式自体ありません。多くが大学構内の中庭などで行われる、学科オリエンテーションのみです。その代わり卒業式は、もうお祭り騒ぎです。2日間続く大学も少なくありません。
その充実したキャンパスライフにするために挙げるべきキーワードの一つが「出会い」です。では、「出会い」とは何でしょうか。
「出会い」とは
「教育とは出会いなり」。
これは、とりわけ教育界においてよく口にされる常套(じょうとう)句ですが、定義自体は曖昧です。私は「出会い」を以下のように定義しています。
「異なる立場の両者が互いに受け入れ合い(受容)、そこから友情、尊敬、信頼、期待などの心情が生まれること(創造)」
太鼓とバチで比喩すれば、互いに受け入れ合って(受容)、そこからリズムが生まれます(創造)。 マッチとマッチの軸で言えば、互いに受け入れ合って(受容)、そこから炎が生まれます(創造)。
学生間で、私たち教師と学生との間で、「出会い」を創って欲しいと願います。一回りも二回りも、あなたを大きくしてくれます。
ここで、「出会い」に関する事例を一つ挙げましょう。
アザミの花
学生たちを連れて障がい者の福祉作業所の田植えボランティアに参加した時のことです。私たちの大切な作業は、田植えに入る前のアザミの刈り取り作業でした。この作業所は、山の中腹にあり、アザミの花が咲き誇っているのですが、そのとげは、午後からの地元の小・中学生のボランティア田植えの邪魔になるのです。
昼食の時間になりました。しかし、地元の養護学校高等部をその年に卒業して「社員さん」になったばかりのM子が戻って来ません。暫(しばら)くして彼女は、私たちが除去したアザミの花を抱えて戻って来ました。そして、「きれいね、きれいね」と言いながら、牛乳瓶に一本ずつさしていくのです。
それを見て、園長曰(いわ)く、
「この子たちは99%、お世話を必要とする子かもしれない。しかし、残り1%で、教えてくれて『ありがとう』と言わせてくれる。」
「これは優しい子どもとかの個人の性格の問題ではない。私たち健常者は要か不要かで『物』として見てしまう。それに対し、彼女たちはこうして、宇宙を包み込む優しさというものを教えてくれる」。
「園長、出会ったね!」私も思わず吐露です。ここには、他者理解という人格の「受容」と、尊敬という心情の「創造」がありました。
「野の花の心がわかるのか この子」
園長は、この「出会い」の一コマを詩にしました。
この子は あざみの花を 胸いっぱいにだいてきて
教室の花びんに させという
あざみのとげの チクチクと痛いだろうに
この子は花きれいね 花きれいねと あざみの花を 花びんにさす
野の花の心がわかるのか この子
(田代一茂著『ちいさなほとけたちのなみだ』)
![]() |
新富 康央(しんとみ やすひさ) 國學院大學名誉教授/法人参与・法人特別参事 |
学報掲載コラム「おやごころ このおもい」第26回