長谷川 清貴

准教授

長谷川 清貴

ハセガワ キヨタカ

所属
文学部 中国文学科
研究分野
中国思想
  • 研究・教育活動

    学位

    修士(文学)

    研究テーマ

    論文

    鄭玄の「為政」観――『論語』注と「戒書」とを中心に――(2014/12/25)

    『論語』「思無邪」章小考――その成立時期と動機について(2013/03/15)

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教員からのメッセージ

大学は最高学府である。その敷居が年々低くなろうと、この事実は揺るがない。諸君が本學の門をくぐった理由は各人各様であろう。研鑽の末に宿願叶った者、必ずしも本意でない者、まだ自分が何をしたいのか見えていない者……。どんな者にも物理的時間は平等に流れる。四年の歳月は諸君を確実に変え、成長させる。しかし、その成長の幅をどれだけ大きくするかは、諸君次第である。物理的には同じでも、その人がいかなる決意で、日々をどのように過ごすか。時間の密度は平等ではない。
大学は学びの場である。本来、学ぶことは楽しいはずだ。学ぶことで己を高められるからだ。しかし、大学での学びには苦しさが伴うだろう。己を大きく高めるために、大きな負荷が要求されるからだ。一方で、大学は自由である。諸君が成人になんなんとし、諸君が自身で大学に入ることを希望したはずだからだ。講義で要求されたことの全てを果たさず、適当に毎日毎週を切り抜けることも、その気になればいくらでもできるだろう。
孔子にこんな言葉がある。「憤せずんば啓せず、悱(ひ)せずんば発せず。」解釈にはいくつかあるが、朱子は「その人が物事を通じようとしてうまく行かない状態、表現する言葉に困っている状態になっていなければ、教えない。」と解する。また孔子はこうも言う。「これを如何(いかん)せん、これを如何せんといはざる者は、吾これを如何ともするなきのみ。」どうしよう、どうしようと言わない者は、私にはどうしようもない。――孔子の教育は厳しいものであるが、この内容は時代を問わず普遍であろう。強い問題意識をもつ者は苦悩も強くなるが、その中で教わり学び得たことはかけがえのない価値をもつ。諸君、大いに苦学してほしい。自分が真に学びたいことは、行き悩んだ末にはじめて見える。諸君が楽しみにあふれた知への扉をいかに見つけ、開くか。我々教員はそのための助力を惜しまない。

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