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人の「見た目」を、他の何かと結びつけてはいけない。19世紀末アメリカ文学から学んだこと

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文学部准教授 福井崇史

2018年8月28日更新

  私たちはよく、他人を「見た目」で判断してしまいがちだ。しかし、人の「見た目」から、その人の「中身」を判断する営為は、歴史上、多くの人々を苦しめてきた。その最も分かりやすい例が、「人種」にまつわるものであることは言うまでもない。
   『外見の修辞学 :  一九世紀末アメリカ文学と人の「見た目」を巡る諸言説』を著した、福井崇史・文学部准教授が研究しているのは、19世紀末の文学作品内で表象される人の「見た目」と、同時代に流通していた、人の「見た目」を巡る思想系だ。そうした思想に現れる、人の「見た目」と、性格や性質、階級性、そして「人種」性を結びつけようとする思考法は、現代社会でも、なお重要な問題の源泉であり続けている。
    ヘヴィーメタルにスポーツと、多趣味な研究者の目に映る、「見た目」に振り回される世界の姿とは。
 
 

 研究を始めたころ、こんなに深く「見た目」の問題を考えていくことになるとは、自分でも思っていませんでした。そもそも中高生のころに英語圏のヘヴィーメタルにハマって、大学で英文学科に進んだのがすべての始まりです。イギリスであればアイアン・メイデンやジューダス・プリースト、アメリカであればメタリカ、メガデス、スレイヤー、アンスラックス、テスタメント……そうしたバンドの歌詞から英語に興味を抱いていったんですね。

 大学に進んで、面白いなと思ったのが、文学・文化・歴史を横断的に扱う授業で出てきた、19世紀の「骨相学」や「観相学」の話でした。人の「頭蓋」や「顔」から、その人に対するさまざまな価値判断を行う、なんていう「科学」が、19世紀半ばのイギリスやアメリカで盛り上がったんですね。その言説は、アメリカでは徐々に、そして明白に、「人種」を守備範囲に入れ始めて、「白人」「ネイティヴ・アメリカン」「黒人」などの「見た目」を、それぞれの知的能力や性格的特質と、「科学的」に結び付けられると主張したんです。結論を先取りすると、こうした考え方は、もちろん現代の科学は支持していません。しかし同時に、残っている当時の図版や、そこに込められているアイデアの無茶苦茶さは、私に強い衝撃をもたらしました。

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    大学院に進み、まだ研究の余地が多そうな19世紀末のアメリカ文学を扱おうと決めた時、思い出したのがこの「見た目」の問題でした。
 
 文学作品というのは、文字テクストを通じて、読者に場景だけでなく、登場人物の「見た目」も頭の中で想像させますよね。そして、19世紀末のアメリカ文学は「リアリズム文学」の時代とされていますが、人物の「見た目」描写が「リアル」であるためには、書き手と読み手が、文化的な文脈やバイアスを共有していなければならなかったはずです。だとすると、そうした文脈やバイアスを承知していなければ、それらの「見た目」描写を、ひいてはそれらの文学作品を、当時の人が理解したようには理解できないのではないか、というのが研究の出発点でした。
 
 たとえば、この時期に出版されたアメリカ文学作品には、全くの撞着語法になりますが、見た目上は  「白人」と変わらない「有色人」の人物が、たびたび登場してきます。しかも、大概は女性。そうした人物の「見た目」を、「すらっとした佇まいで、うっすらと赤味が透ける、豊かなオリーヴ色の肌をもつ」というように、その美しさを褒めそやして描写するのですが、その直後に、「ああ、しかし彼女は劣等なる有色人」というように続く。これは、一体何なのか。そうした描写を、あるいは文学作品を、当時の人が理解したように理解しようとした時、私は同時代の他の文学作品はもとより、あらゆる文字媒体を横断して新たな視座を得ることが、どうしても必要だということに気付いたのです。
 

 私はそれ以降今日まで研究を進めてきて、19世紀であろうが21世紀であろうが、人の「見た目」の違いに、「見た目」以外の違い―「人種」性や民族性、階級性、あるいは知性―などを繋げようとする思考法は、完全に破綻していることを再確認しました。人の「見た目」に、色々な意味での「優劣」が現れている、なんていう考え方は、19世紀から現在に至るまでだけでも、破綻に次ぐ破綻を繰り返しているんです。でも、またすぐにちょっと違う形で、この考え方は姿を現してきます。「見た目」が違うということが意味しているのは、「見た目」が違うということ、ただそれだけ。それ以上でも、それ以下でもないんです。歴史を振り返ってみて、もうみんなそんなことは分かろうよ、というのが実感としてあります。

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    ただ、人間にとって視覚のもつチカラや意味があまりに強いこともあって、私たちがいつまでもそうした考え方を用いてしまっているのは事実です。ちょっと違う文脈ではありますが、「見た目」は重要だよ、というメッセージことを冠した新書が少し前にヒットしたことも、皆さんまだ記憶に新しいのではないでしょうか。私自身大好きな野球やラグビーといったスポーツを観ていても、「見た目」と「人種」や民族、といった問題は、「多様性」が叫ばれるようになってきた日本でも、つきまとってきますよね。

   一方で、いま世間でよく言われるようになっているこの「多様性」という言葉に、違和感を抱いているのも事実です。最近、この言葉を都合のいいように使う人が多すぎるのではないか、と。「多様性」を持ち出せば、簡単に自分を安全な側に、「正義」の側に置くことが出来てしまうわけですが、使い手の側に、責任感をあまり感じないんです。

     私は、トランプ氏が当選した大統領選の年に、一年間アメリカに滞在していました。あの選挙戦を初めから終わりまで見ていて、不謹慎ながら興味深かったのは、選挙戦を通じて「多様性」の尊重を叫んでいた人々、それは大多数が大都市圏の人々で、日頃から多様な出自をもつ人々に囲まれているがために自然と「多様性」について考える機会がある人々なわけですが、彼らが、選挙で自分たちの望む結果が得られなかった後、すぐさま暴力的なデモ活動に入ったことが、テレビで中継されていたことです。 
    
 それは、誰のための「多様性」か。これは、「多様性」を叫ぶ自分たちだけのための「多様性」であり、彼らの言う「多様性」を快く思わない人々(そうした人々もいるということこそが「多様性」なわけですが)は、存在することすら認めないという、何とも狭量な「多様性」ではないか、と言われても、仕方ないのではないでしょうか。私たちは、もっと責任感のある、持続可能な「多様性」について、考えていかねばならないと思います。
    
 話を戻すと、人にとって視覚情報、「見た目」の印象は、何か特殊な事情がない限り、最初に入ってくる情報であり、とても強力な情報になります。それは、文学作品を読むときでも同じことです。それを思い描かずに小説を読み進めることは、極めて難しい。私たちが、「見た目」の威力から逃れることは本当に困難だし、「見た目」で判断してはダメだと分かっていても、すぐに忘れてしまう、視覚情報の威力が勝ってしまうことも、多いでしょう。だからこそ、「見た目」を、他の何かと結びつけてはいけない、というこの事実を、何度でも肝に銘じる必要があるんです。
 

 

 

 

研究分野

19世紀末アメリカ文学研究、批評理論

論文

「可視化される『血』、不可視化される『色』:舞台の上の『まぬけのウィルソン』」(2019/07/15)

“On the Continuing Presence of Ideas on “Race” in the World Today: Through Pudd’nhead Wilson and Beyond”(2019/04/30)

このページに対するお問い合せ先: 広報課

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