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渋谷にも古代人がいた! スクランブル交差点に人が集まるのは必然だった!?
渋谷を発展させた“地形からのメッセージ” 
~Part3~

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研究開発推進機構 准教授 深澤太郎

2019年5月31日更新

 渋谷と言っても、エリアによって表情はさまざま。
 東、松濤、富ケ谷(奥渋谷)、宇田川町、円山町、代官山町などなど、それぞれのエリアによって気質や雰囲気に特色があり、渋谷という名称が示す通り、かつて渋谷には多くの川が流れ、スクランブル交差点は谷の真ん中だったほど。
 高台、低地、川沿い……自然の要因が絡み合うことで、現在の渋谷が作り出されたのだとしたら、古代から渋谷を紐解くことで、今につながる発見があるに違いない。
 今回は、渋谷の考古学を知悉する深澤太郎・研究開発推進機構准教授に、古代から現代につながる渋谷の魅力を、

Part1「そもそも渋谷とはどんな地形なのか?」 
Part2「渋谷周辺に点在する遺跡、史跡」
Part3「古代から現代まで渋谷の街はどう変わっていったのか?」

異なる3つの視点から紐解いてもらう企画を実現。
 なぜ人は渋谷に魅せられ、そしてこの街に人が集まるようになったのか? Part3では、地形と歴史あっての“スクランブル交差点”誕生を解説していく―

 

古代から現代の渋谷の結晶・スクランブル交差点
江戸時代も人の思いはスクランブルだった

 

 Part1で説明したように、“東渋谷台地”と“西渋谷台地”の真ん中には、渋谷川が流れている。面するように明治通りが走っているが、これにも理由がある。

 「明治通りは、関東大震災後の復興のため、1927年(昭和2年)の都市計画に基づき、東京初の環状道路(環状5号線)として整備された道路です。大きな幹線道路を整備するにあたって、できるだけコストや労力はかけたくない。当然、障害の少ない平地を通るルートが採択される。明治通りを走ると、東京の地形の一端が見えてくると思います」(深澤先生、以下同)

 かつての低湿地帯は、海退や乾燥化を経て人々が利用できる環境となり、近代になると新たな役割を得ることで発展していく。道路が整備されれば、沿道に人が集まるようになる。そのロジックは、明治通りが整備される以前からも顕著だという。

 「Part2で紹介した庚申橋の傍らにある庚申塔。そこから少し進んだ恵比寿西一丁目交差点の脇にも庚申塔が建立されています。こちらには、馬頭観音も建てられている。馬頭観音とは、観世音菩薩の化身で六観音の一つ。頭は諸悪魔を下す力を象徴しており、煩悩を断つ功徳があるとされています」

 


(CAP)馬頭観音は、一般的には、馬の無病息災の守り神として信仰されている観音様だ。

 

 「馬が渋谷川の水を飲むなどして休憩していた情景が浮かんできます(笑)。そして、先の庚申橋から、こちらの庚申塔のある場所まで道が敷かれていたことも想像できる。同時に、この道が近世以前から重宝され、多くの人で賑わっていたことが伺える。Part2で先述したように、塔を寄進した人々の居住地を見ると非常に広範囲ですからね」

 広尾(原)と駒場(原)に、将軍家や御三家の狩猟があるときなどは、この周辺の主要道は通行禁止になっていたそうだ。そのため、この道は渋谷川を越えて東西に抜ける裏道としても重宝されたという。加えて、当時の渋谷は御府内(町奉行の支配に属した江戸の市域)の境界に位置する場所。この道が、江戸市中と郊外農村の交易路としても栄えていたことが、庚申塔と馬頭観音から読み取れる。石碑一つで、何百年も前の手がかりを見つけられるのだから、街歩き&考古学の合わせ技は面白すぎる……そう思いません?

 「ちなみに、一晩中眠らないで夜明けを待つ“講社”は、とらえ方によっては現代のパーティー・ピープル……パリピのような存在です。信仰は、真剣な行為であると同時に、娯楽的な側面もある。渋谷で遊ぶ若者は、江戸時代のパリピに敬意を評して、庚申塔を供養するというのも一興では!?」

 と、深澤先生が穏やかに笑うように、たしかに、庚申塔を供養してから完全徹夜に望む方が、なにやら妙な力が授かりそうだ。「効果のほどは分からないけど、気持ち的にね」。そんな会話があってもいいはずだ。大事なことは、現代人が庚申塔のような“いにしえの存在”に気が付くことなのだから。

 

渋谷の人の流れを変えた大山詣

 

 江戸時代になると、“東渋谷台地”は、北から下豊沢、中豊沢、下豊沢村の3つの村の新田が開発される。この頃になってようやく台地の開発が進み、郊外だった渋谷は徐々に江戸に取り込まれ、“西渋谷台地”には、大名・旗本の武家屋敷が出現する。もしかしたら、このときまでは塚状の古墳も、そこそこ残存していたのかもしれない。


(CAP)御府内の境目に位置する宮益坂。江戸時代中期頃から賑わいを見せるように。

 

 徐々に街として変貌する渋谷。「とりわけ大きな機能を果たしていたのが、大山街道……今の国道246号です」と、深澤先生は語る。

 そもそも国道246号は、その昔は「足柄路(あしがらじ)」と呼ばれ、中世では東国と畿内を結ぶ主要道として栄えていたという。箱根・竹ノ下の戦いに敗れ、敗走する新田義貞を追い、足利尊氏が鎌倉から京都へ攻め上がった道でもあり、江戸時代に東海道が栄えるまでは、大主要道の一つだった。国道246号は、昔から“華のある”道だったのだ。

 「東海道の脇街道として機能するようになるのですが、脇街道は庶民が使う道です。主に、東海道の輸送を補う役割を持っていました。加えて、江戸時代中期から大山信仰が盛んになる。江戸になる頃には、矢倉沢往還と呼ばれていた脇街道の名称が、信仰の発展にともない「大山街道」と変わるまでの一大ムーブメントになったのです」

 神奈川県・丹沢山地に位置する大山には、かつて「石尊大権現」と呼ばれた大山阿夫利神社がある。農民から五穀豊穣、雨乞いの神として信仰され、商いをする人々にも信仰が広がった。その伝統は今に続いているほど。江戸時代、町人文化が盛んになることで、大山詣(おおやままいり)のような庶民のお参りが台頭するようになる。

 「この地図は明治時代の地図ですが、写真上部に宮益町と書いてあることが確認できると思います。宮益町の真下に黒く密集したものがありますが、これはすべて町屋です。同時に、明治通りを越えた道玄坂周辺も黒く密集している。
この地帯に町場が成立していたことを物語っています」

 御府内の境目に位置する宮益坂は、とりわけ大きな賑わいを見せる。それを象徴する存在が、坂の中ほどにある「宮益御嶽神社」だろう。

 「大山街道の一角に位置する宮益御嶽神社も大変な参拝客で賑わった。これから大山に向かう人々は、この神社で旅の安全を祈願したのでしょう。宮益御嶽神社は、奈良県吉野の蔵王権現の分社とされ、武蔵御嶽山とも縁が深い神社です。いずれも山岳信仰と仏教が結びついた信仰・修験道の本尊「蔵王権現」を祀っていたことから、宮益御嶽神社もそういった側面を持っていたと考えられる。さまざまな理由から、宮益御嶽神社を訪れる人は多かったのではないか」

 

(CAP)急な階段を上がると姿を見せる宮益御嶽神社。江戸時代の人は、ここから大山を一望していたことだろう。

 

 渋谷という街は、偶発的に発展した街ではない

 

 また、江戸時代は数多くの水路があったことでも知られている。もちろん、谷の街・渋谷も水路を活かして生産や物流が行われていた。「その名残を示す場所が、宮益坂を下って、明治通りを渡ったみずほ銀行付近にあります」と、深澤先生。

 「駐輪場になっているこの風景。緩やかなカーブを描いていますよね? 渋谷川を暗渠した場所です。左奥には、渋谷のんべい横丁が見える。かつては古い建物が川沿いに林立していました。また、水車で米を搗いたり、下流では水路を使って物資を運搬するなどの光景が日常に広がっていたのでしょう。江戸時代の中頃には、すでに渋谷駅周辺には多くの人と物があふれていたんですよ」

 渋谷川を挟んだ坂の東西に宮益町、道玄坂町という町場が形成され、市中と郊外とを結ぶ場所として隆盛する。さらには、大山街道を使って、世田谷方面から農産物などを江戸市中に運搬する。宇田川の機能性もあるため、周辺はさらに活気づく。そこに、大山詣の参拝客が賑わいを見せる。

 「これはもうスクランブル交差点の原型でしょう!」。深澤先生は破顔する。

 「渋谷に暮らす人、渋谷で働く人、渋谷に遊びに来た人……現代の渋谷にいる人たちと、江戸時代に渋谷にいた人たちは、そんなに変わらないんですよ。変わったのは風景や文化。内面の部分は、それほど変わらないんです。今も昔も、渋谷は人が集う巨大装置であり、人が集まる機能性を持っていたということ」

 

 

(CAP)渋谷川と宇田川と大山街道がクロスする場所が、現在のスクランブル交差点だ。スクランブル交差点に人が集うのは、必然だったのだ。

 

 「渋谷川と宇田川という大きな河川によって台地が形成され、多くの人が暮らすようになった。水を活かした生活圏ができあがり、中世になると街道が整備され、人の往来が増えるようになる。そして、近世になるにつれ町人文化が勃興し、渋谷はさまざまな人が集う場所へと変貌を遂げます。支流を含めた河川が豊富だったからこそ、大小の道筋(低地)が生まれ、市中と郊外の境界だったからこそ、往来が盛んになる。渋谷という街は、偶発的に発展した街ではないんですね。渋谷という場所、地形が誕生した古代から、とてつもないポテンシャルを秘めていたということです。渋谷の街を歩くと、たくさんの学びとヒントを授けてくれるんですよ」

 古代があるから今がある――。渋谷のスクランブル交差点は、「何千年、何万年という渋谷の月日を凝縮した、結晶のような場所」なのかもしれない。

 

 

 

 

深澤 太郎

研究分野

考古学・宗教考古学

論文

「伊豆峯」のみち―考古学からみた辺路修行の成立(2020/06/18)

常陸鏡塚古墳の発掘調査(2019/12/25)

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