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渋谷にも古代人がいた! スクランブル交差点に人が集まるのは必然だった!? 
渋谷を発展させた“地形からのメッセージ” 
~Part1~

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研究開発推進機構 准教授 深澤太郎

2019年5月17日更新

 渋谷と言っても、エリアによって表情はさまざま。
 東、松濤、富ケ谷(奥渋谷)、宇田川町、円山町、代官山町などなど、それぞれのエリアによって気質や雰囲気に特色があり、渋谷という名称が示す通り、かつて渋谷には多くの川が流れ、スクランブル交差点は谷の真ん中だったほど。
 高台、低地、川沿い……自然の要因が絡み合うことで、現在の渋谷が作り出されたのだとしたら、古代から渋谷を紐解くことで、今につながる発見があるに違いない。
 今回は、渋谷の考古学を知悉する深澤太郎・研究開発推進機構准教授に、古代から現代につながる渋谷の魅力を、

Part1「そもそも渋谷とはどんな地形なのか?」 
Part2「渋谷周辺に点在する遺跡、史跡」
Part3「古代から現代まで渋谷の街はどう変わっていったのか?」

異なる3つの視点から紐解いてもらう企画を実現。
 なぜ人は渋谷に魅せられ、そしてこの街に人が集まるようになったのか?その答えは、渋谷の地形に隠されていた―

 

シブヤの古代人が暮らしていた場所は今の一等地
河川の下刻作用がもたらした文化や暮らしが、現代の礎に

 

 「かつて原宿には、ナウマンゾウがいたんですよ。冗談ではなく、本当の話。昭和46(1971)年に、地下鉄の「明治神宮前」駅のトンネル工事の最中に、ほぼ一頭分のナウマンゾウの化石が発掘されました。若者の聖地にナウマンゾウがいた……古代を紐解くことで現代の景色が変わって見えてくる。それこそ考古学の醍醐味の一つでしょう。」

 そう笑いながら説明するのは、深澤太郎先生。自身も渋谷界隈の散策を日常の趣味とする、公私にわたる渋谷愛好家だ。

  「本日、散策するコースがこちらです。ここを歩けば、皆さんも必ずや渋谷の地形の醍醐味を味わえるはず!」(深澤先生、以下同)

 「時間があれば、渋谷のオススメの古き良き飲み屋さんの案内もしたいところですが(笑)、本日は渋谷の地形をお話しながら散策をしていきましょう。実は、渋谷でも縄文遺跡や貝塚、弥生時代の集落、古墳など、たくさんの遺跡が見つかっています。それだけ古代人が暮らしやすく、文化を形成しやすかった場所ということが言えるんですね」

 

(CAP)國學院大學構内で出土した、縄文時代の土堀具などとして使われていただろう打製石斧。大学構内からもかなりの遺物が出土したというから驚きだ。

 

 「國學院大學が位置する渋谷区東は、“東渋谷台地”と呼ばれる高台です。大学のお隣にある氷川神社に行くとよく分かるのですが、相当な高低差を体感することができます。坂を下ると、明治通りに沿うかたちで渋谷川が流れている。縄文時代は狩猟、漁撈、採集などで生計を立てるため、川沿いの高台というのは食料を獲得する場所として好立地だったんですね」

(CAP)氷川神社を歩くと、渋谷が「谷」であることを痛感する。場所によっては、ちょっとした崖のような雰囲気。

 

 「武蔵野と聞くと国分寺の方をイメージする方も多いと思うのですが、実はこの場所は“武蔵野台地”の 東の端で“山の手”と呼ばれる中心地です。ちなみに、スクランブル交差点付近に行っても、かつては川が流れるだけの低湿地帯ですから食料確保か水上を移動する以外には行く目的がない(笑)。近代以前は、氷川神社境内のような風景がこの辺一帯に広がっていて、温暖で海面が高かった縄文時代前期の前後は、海も近く利便性に長けた地域でした。縄文人は、一等地としてここを選択したわけです」
 つまり、國學院大學に通っている学生さんたちは、縄文人が根を下ろしていた、言うなれば「縄文ヒルズ」の一角で大学生活を送っているということ。なんだかうらやましい。

 

 

   「坂を下って、明治通りにぶつかると渋谷川が見えてきます。庚申橋まで歩いて代官山町方面を向くと、再び坂が見えてくる。ここが“西渋谷台地”の入り口です。渋谷川を境として、二つの台地が形成されている。河川の下刻作用(河流や氷河が底面に向かって働きかける侵食作用)によって、台地を削った傾斜が作られている。渋谷が谷であったことを物語る、とても分かりやすい場所の一つですね」

 

(CAP)マップ②から③へ。恵比寿西一丁目交差点から代官山町方面に向かう坂。東横線が横切る付近をピークにいったん下って、再び上る。アップダウンがあるということは、それだけ支流が流れ、下刻作用が働いたということ。

 

  「代官山町方面から猿楽町方面まで歩くと、猿楽古代住居跡公園(猿楽遺跡)が見えてきます。先の“東渋谷台地”に縄文人が暮らしていたように、“西渋谷台地”にも先人たちが暮らしていたことが分かる。高台こそ、彼らにとっての安住の地」

 今でもお金持ちの人は高台に住みたがる傾向が強いが、「縄文時代や弥生時代の人々も高い所に暮らすことを志向していた」と深澤先生が微笑するように、人間の性質は、2000年経ってもさほど変わっていないのかもしれない。

 

地形を知ると、街が見えてくる

 

   猿楽古代住居跡公園を後にして、旧山手通り方面に進み、鎗ヶ崎交差点へ向かう途中、猿楽塚古墳が見えてくる。古墳の説明はPart2で後述するとして、「このエリア一帯も地形として面白い」と深澤先生は太鼓判を押す。

 「歩くと分かるのですが、猿楽小学校周辺から旧山手通り一帯にかけて非常に道が平坦です。台地として非常に広い。ところが、旧山手通りから中目黒方面に向かうと、ガクンと低くなる。旧朝倉家住宅は台地のへりに建てられていて、みはらしが素晴らしい一方、まるで崖の上にそびえたっているような感覚すら覚えます。この場所が“西渋谷台地”の西端であることを雄弁に物語っています」

CAP)旧山手通りは台地のへりだった! そう考えて歩いてみると、ここ一体が極めて台地感のある場所だと痛感するから不思議。

 なぜここが台地の端になるのか? その答えは、すぐ西に流れる目黒川の存在だ。先述した下刻作用が、西端サイドでは目黒川によって生じるため、“西渋谷台地”が一層、台地然としたかたちで浮き彫りになるというわけ。代官山UNITがある鎗ヶ崎交差点付近は、緩やかな傾斜が終わる台地の終点(ここから歩くと始点)。

 この場所が、まるで槍の先端のように段々と細く、低くなることから鎗ヶ崎という名称が付けられたとも言われているだけに、“名は体を表す”とは人間に限った話じゃないんです。まさに、地形を知ると、街が見えてくるのだ。

 CAP)色が濃いところほど海抜が高い。“西渋谷台地”と隣接した低地の高低差が分かる。渋谷の地形にお隣の目黒川も関係していると考えると、渋谷と目黒の付合いははるか昔から始まっていることがお分かりになるだろう。

 


  「少し場所を移動して、金王八幡宮(渋谷城跡)へ行ってみましょう。駅に向かうにつれて六本木通りが下っていき、隣にある宮益坂も下っていくことが分かります。つまり、金王八幡宮は冒頭に説明した“東渋谷台地”の西端のへりに位置することが分かります。立地が優れていたため、この場所に城を築いたことが想像に難しくない。地形が分かると、なぜそこに人やモノが集まってきたのかが、段々分かってくるから面白いんです。また、金王八幡宮の西に渋谷川が流れ、南にも支流が流れていたことが知られています。まさに天然の要塞として機能していたことが伺えます」

 

(CAP)金王八幡宮のすぐ横にある側道。ここに支流が流れてたと言われている。

     さて、渋谷が東西の台地に挟まれる地形であることが何となくお分かりいただけたかと思う。最後に、深澤先生は「いかに渋谷が谷であったか。それを顕著に教えてくれる場所が、センター街(バスケットボールストリート)周辺にもある」と莞爾として話す。

 「スペイン坂って、ものすごく急だと思いませんか!? このお話を最後まで読んでくだった方なら、もうお分かりですよね。そう、ここも台地の始点(終点)なのです。ここを上がると、代々木公園や国立代々木競技場のある広大な“代々木台地”につながる。この斜面は、どこの川の下刻作用によって生じたものか。町名にもなっていますが、今は暗渠されてしまった宇田川です。今はもう、存在していない川が、センター街の礎を築く重要な役割を果たしたのです」

 宇田川の支流として、現在の明治神宮方面に流れていた「河骨川(こうほねがわ)」も暗渠された川の一つだが、この川は誰でも知っているであろう童謡・唱歌「春の小川」のモデルとなった川だ。今から何万年前というはるか昔に、渋谷という地形を作りあげた川は、姿かたちを変え、今も私たちの生活とともにあるというわけだ。

CAP)カルチャーの発信地・宇田川町周辺も台地と低地の“きわ”に位置する

   「渋谷という街は、渋谷川、宇田川という大きな川を中心に、たくさんの支流が流れることで、台地に谷を形成し、古代人が暮らす場を形作りました。そこで生まれた知恵や文化が、時代が下るとともに、今の渋谷を作り上げることにつながります。Part2では、どんな文化が生まれたのか、そしてPart3では、近現代において渋谷が発展した地形的要因を紐解いていこうと思います」

 

 

 

深澤 太郎

研究分野

考古学・宗教考古学

論文

「伊豆峯」のみち―考古学からみた辺路修行の成立(2020/06/18)

常陸鏡塚古墳の発掘調査(2019/12/25)

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