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國學院大學
伝統文化リサーチセンター

本牧神社祭礼調査

2009年9月2日更新



1. 調査目的
 今回の調査では、本牧神社「お馬流し」調査を通じて、(1)厄災を流す祭礼としての特色、および祭礼の中で「お馬(んま)さま」という「モノ」が果たす役割を分析する。さらに、(2)昭和21(1946)年に、進駐軍に本牧神社旧社有地を強制接収され、平成5(1993)年に現在の社殿が完成し遷座祭が行われるという歴史的変遷を遂げる中で、「お馬流し」は昭和53(1978)年に神奈川県無形民俗文化財に指定された。境内地が変遷を遂げる中で、永禄9(1566)年から継承される祭礼において変わらない「モノ」、さらに祭礼に対する人々の「心」とは何であるかを検討する。

写真1 お馬さま


2. 実施日時
 平成20年(2008)8月2日~3日(2日間)
 
3. 調査地
 本牧神社(神奈川県横浜市中区本牧和田)および氏子地域
  *付随した調査地
   横浜市八聖殿郷土資料館(神奈川県横浜市中区本牧元町)
   横浜市立中図書館(神奈川県横浜市中区本牧原)
 
4. 参加者
  小島 優子(ポスドク研究員)
 
5. 活動の概要
【調査の概要】
(1)お馬流し全般について
 「お馬さま」は、亀の胴体に馬の頭を持つ茅で作られた作り物である。長さは約50センチほどであり、口に稲穂をくわえている。胴体の中ほどに、大豆と小麦を蒸して黄粉をまぶした神餅を土器(かわらけ)に入れ、神酒と一緒に置く。お馬さまは古来羽鳥家で作られ、お馬迎えの日に羽鳥家から本牧神社まで運ばれて一晩本牧神社に供えられる。お馬流しの日には、氏子町内を回ってから本牧漁港まで渡御し、船で東京湾海上4kmの沖合で海に流される。お馬さまと一緒に厄災が流されるために、お馬さまが再び本牧の浜に戻ってくると、その年は不漁になったり、疫病が流行ったりすると言い伝えられている。
 
(2)お馬迎え 8月2日 
 「お馬さま」は旧本牧村の六ヵ村で作られていたために、現在でも6体作られている。聞き取り調査によれば、現在の18の町内から3人ずつの祭礼委員と神社総代が、午前9時半の大鳥居から神前までの「お馬迎え」に参加する。
 実地調査から明らかになったことは、鳥居の下から神前まで祭礼委員と総代が一列に並んでお馬さまを頭上で次の人へと渡して運ぶのだが、神前に近い方に袴姿の総代、遠い方に浴衣姿の祭礼委員の順番で並ぶことである。お馬さまは、お馬迎えのときはまだ御幣をつけておらず、神前で宮司と斎員によって頭上と口に御幣がつけられ、背中に白い布を被せられ、参拝者の方を向けて供えられる。お馬さまの下には、それぞれの町から町名の書かれた桶に入れられた神酒が奉納されている。
 本牧神社宮司の話によれば、お馬さまは、一晩神前で休んで霊力を受け、この霊力でもって3日に町を回って町の罪や穢れを吸い寄せるという。本牧は鎌倉時代から馬になじみが深く、幕府に馬を納めていたために、「お馬さま」は馬の形をしているそうである。茅や麻は罪や穢れを祓い落とすものであるので、「お馬さま」は茅で作られ、麻ひもで結ばれている。

写真2 神前に供えられたお馬さま


(3)お馬送り 8月3日 午前8時半~
 小学生男子が2メートルほどの忌竹をもち、お馬さまが神前から船をかたどった車の運転台の屋根まで運ばれ、また本牧漁港から車から船へ送られているところを祓う。
 船をかたどった車が町内を徐行運転し、その後に各町内の囃子が乗った小トラックが続いてパレードが行われる。町内の人たちは玄関の前や、ベランダ、路上に出てお馬さまを迎えて頭を下げて挨拶することが、実地調査から分かった。

写真3 船をかたどった車


 本牧漁港では、車に近い方から、総代、祭礼委員、白のズボン姿の船の乗組員の順番で一列に並ぶ。ゆっくりと頭上を運ばれていたお馬さまは、船から50メートルほどのところから、「せめ」といって一斉に走り出して運ばれる。最初に忌竹をもった小学生が「せめ」を行い、次にお馬さまを頭上にもった祭礼委員1名と船の乗組員5名が「せめ」を行う。

写真4 せめ


(4)お馬流し 8月3日 午前11時
 東京湾上で、まず忌竹が流され、その後に2隻の船に3体ずつ船の左舷に乗せられたお馬さまが流される。

写真5 東京湾海上で祭船から流されるお馬さま


(5)神輿渡御 8月3日 午後
 神輿の連合渡御は、本牧神社の氏子地域17町が浜方と岡方の二つに分かれて行われる。浜方の連合渡御の出発点は、本牧が埋め立てられる以前の昭和37年まで船小屋があった場所であり、町内を回ってまた船小屋跡地に戻ってくることが実地調査から明らかになった。祭礼委員への聞き取り調査で明らかになったのは、本牧が埋め立てられる以前は、お馬流しには多くの船が参加していて漁村のお祭りであったが、埋め立て後は船を出すことができないので、代わりに神輿渡御が盛大に行われるようになったそうである。

写真6 神輿渡御

(6)文化財指定について
 昭和33(1958)年にお馬流しが神奈川県の無形民俗資料に選択されたときに、神船2隻が新造された。その神船は現在、神社境内に保存されている。また船がかたどられたトラックや、祭礼委員の手ぬぐいや旗などに、「県無形民俗文化財」であることが明記され、祭が文化財であることのPRが行われていた。
 
(7)付随した調査
  ・横浜市八聖殿郷土資料館
    昭和初期の横浜市の航空写真やお馬流しの写真、昔の神船の模型などを閲覧した。
  ・横浜市立図書館
    お馬流しと、横浜の歴史に関する資料収集を行った。
 
 
6. 調査の成果と今後の課題
【調査の成果】
 お馬流しの由来は、(1)鎌倉時代に和田山が軍馬の放牧地であったころ、死んだ軍馬を海に流したことが始まりだという説、(2)昔疫病がはやり、その悪魔を流すためという説、(3)「お馬」は「御魔(おんま)」であって、邪神を流してしまうためという説がある(『本牧のあゆみ』本牧のあゆみ研究会編集、新本牧地区開発促進協議会発行、昭和61年)。氏子の人たちは、お馬さまは神ではなく、穢れや災厄を背負う身代わりのようなものだと認識していたので、すなわちお馬さまは形代(かたしろ)として、厄霊放流を担う意味を祭の中で担っていると考えられる。さらにこのような厄霊放流という人々の心を担う「モノ」が馬の形態を有しているのは、軍馬の放牧地としての地域的特性に関わっていることが明らかになった。
【今後の課題】
 動力船でお馬流しが行われる以前には、神船からお馬さまが流された後、本牧地区旧六か村の六艘の神船による競漕が行われていた。この競漕復活の検討が氏子地域では始められており、本牧埋め立て以前に行われていた祭礼の形式を復活させようとする試みがなされていた。お馬流しが永禄9年に始められたと記されている本牧神社の古文書には「網を以て御神体引揚」られたと記述されており、祭礼は当初から漁民との関係が密接であり、その中で、船で東京湾に漕ぎ出してお馬さまを流すという点が、米軍接収や本牧地区埋め立てを経ても変わらない祭礼の要素であったと捉えられる。祭が船と密接な関係であることは、町内を回るトラックが船をかたどっている点、連合神輿の出発点が船小屋跡地であった点にも見て取ることができる。
 お馬さまを海に流す点に関して、文献資料を通してより詳細な調査を進めるとともに、横浜市金沢区の富岡八幡神社の「祇園舟」など類似した祭礼の調査を通して、祭礼の中でお馬さまという「モノ」を支えてきた、漁村の人々の「心」を浮き彫りにすることが今後の課題である。
 
文責: 小島優子



このページに対するお問い合せ先: 研究開発推進機構事務課

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