福井県・京都府祭礼資料収集調査
2010年7月8日更新
1. 調査目的
現在、第2グループ「神社祭礼に見るモノと心」に於いて、祭礼に用いられるモノの通年のテーマとして、神社祭礼を彩る「曳きもの」に注目して調査・研究を行っている。主として現在、各都道府県でどのくらいの数で、「曳きもの」が祭礼・神事の中に登場しているのかを確認すべく、各種の報告書や祭礼研究の論文・研究書、各地区に於ける郷土案内の文献を中心にしてデータベース化の作業を行っている。
しかし、各種・各地区の文献・資料に於いて、掲載されている内容や情報量に差があり、詳細なところが確認しづらいところがある。現在、一番詳細な資料として挙げられる、平成7年に神社本庁が刊行した「平成祭データ」も同様である。また、各自がデータ入力を行っている地区の歴史・文化・風習・風土などに関しての情報を得なければ、その地区の「曳きもの」の姿を考察する事は難しいと言える。よって、今回の調査は、調査者が入力担当をしている「近畿地方」の影響を受けていると考えられる福井県に焦点をあて、福井県下の「曳きもの」に関する祭礼・神事を中心に、文献調査及び資料収集を行った。
この福井県を選定したもう一つの理由として、平成20年2月から3月まで「曳きもの」・祭礼に登場する「動物」・社殿、御神宝、祭事などが「文化財指定」されたモノに関するアンケート調査を行ったが、今回の調査先である敦賀市の「氣比神宮例大祭」が斎行される気比神宮から御回答を頂戴しており、返書に「みなとつるが山車会館」に関する資料も同封されていた。このアンケート調査の結果のデータを生かす意味も込め、調査対象とした。
また、「神社祭礼に見るモノと心」グループの調査・研究対象の一つに、「装束」をはじめとする「有職故実」に関する研究を行っている。ただ、現状に於いては、一般的に入手できる資料(書籍類中心)を主としている為、詳細な調査・研究が足りない部分がある。これを補う意味も込め、有職故実に関する見聞を広める為に、何かの祭礼・神事を主とし、その祭礼・神事に関する有職故実に関する資料の閲覧・確認作業をする必要がある。そこで有職の専門家達が所蔵していた現物資料を確認すべく、京都府立総合資料館所蔵の「江馬務」・「吉川観方」コレクションの閲覧を行った。両者とも日本を代表する有職故実研究家である。この二人の先行研究者が着目した点を調べる事によって、どのように有職故実を捉え、考えていたのかを知ることが出来る。その一端を調べるべく、両者のコレクションの保存・管理を行っている財団法人京都文化財団・京都府京都文化博物館の許可を得て、現物資料の閲覧・調査を行った。
2. 調査期間
平成22年3月6日~10日
3. 調査地
福井県敦賀市(みなとつるが山車会館・敦賀市立博物館)
福井県福井市(福井県立図書館)
京都府京都市(京都府立総合資料館・京都府立図書館)
4. 参加者
新木 直安 (ポスドク研究員)
5. 調査概要
(1)福井県敦賀市・福井市調査
3月6日は福井県敦賀市の「みなとつるが山車会館」・「敦賀市立博物館」で、7日は福井県福井市の「福井県立図書館」にて、文献・資料調査を行った。
「みなとつるが山車会館」は、現在9月2日から15日(旧暦では8月2~15日)に斎行されている「氣比神宮例大祭」(通称:「氣比の長祭り」)に曳き出される「山車」の収蔵・保存整備・展示されている。平成9年に開館し、「山車」6基が収蔵されている。内、3基は、氣比神宮例大祭以外でも見学できるように常設展示がされている。
氣比神宮例大祭に曳き出される山車は、「山車」と書いて「やま」と呼んでいる。これは、京都の祇園祭の影響を強く受けている所から、「やま」と呼ぶようになったと言われている。この氣比神宮例大祭の山車の特徴として以下のような点がある。
・車輪が左右3輪ずつあり、計6輪で曳く。左右並んだ3輪の内の真ん中の車輪は、残り2輪より少し大きめに作られている(方向転換がしやすくなる為)。
・山車の構造の特徴として、後部(引跡という)に轅(ながえ)が取り付けられている。轅は山車の底である台車(台輪)の部分に取り付けられ、山車全体のコントロールをとる舵の役割を果たしている。この轅でバランスをとり、真中の車輪の重心を置き、山車の方向を変換させる。
・山車の舞台の上に本物の松を取り付ける。これは京都の祇園祭の山に乗せられる松と同様である。この松は、近世期、敦賀は敦賀藩が存在していたが、小浜藩の支藩であった為、小浜藩の許可を得て、敦賀の代官のもとで、気比の松原の松を伐採した。
・この松の前に人形が取り付けられる。人形は「当世具足」と呼ばれ、実物の甲冑を人形に取り付けるタイプとなっている。また顔の部分には、同じく実物の能面を取り付ける。なお、人形は骨組みがあり、その年の題材(大半が戦国期の合戦の一場面をテーマにしている)に合わせて、構えを作り、その題材の人物に合わせた甲冑や能面を人形に取り付ける。これらの実物の鎧・能面は近世期に作られ、敦賀商人が買い求めたモノである。現行祭祀に於いても、実物が使われ、継承されている。
・曳きものに関する祭礼につきもののお囃子が無い。正確には掛け声と小太鼓の音頭しかない。この掛け声と小太鼓の音頭は氣比神宮の鳥居の材木を運ぶ際に歌われたものと同様とされている。
・長年、山車に関して、二階以上から山車を見ない事。女子は山車を曳いてはいけない事などの制限事項があった。
氣比神宮例大祭の山車の起源は明確な事が分かっていない。天正年間に織田信長が山車を見たとの伝承は残っているが、信長が朝倉侵攻の際に、氣比神宮そのものを焼き落としているので、無理な話となる。近世期初頭に於ける町方の文書や、近世期中頃に成立した文人墨客達による地誌の中で、山車に関する記述が出ている。
また、近世期に於いては(旧暦8月)、2日の宵宮、3・4日の本祭に於いて山車が曳き出されていた。当時は大山車と小山車の2種類の山車が存在しており、2日の宵宮には宵山が出されていた(ただ、宵山に関する記述は近世後半の文献しか登場しておらず、検討を要するとの事)。小山車は近世期に於いて、最大で40~50基、少ない時でも30~40基、曳き出されていた事が史料で判明している。当時は、各地区の商人が1基丸ごと所有していたという。敦賀は古くからの港町であり、近世期には北前船の寄港地でもあった。莫大な資産を有した敦賀商人たちは、その資産を元手に小山車を新造・購入していたと見られる。この小山車の大きさは、現在曳かれている山車とほぼ同じ大きさ(ほぼ3メートル)だったと見られる。一方、大山車は4日の本祭のみ曳行されていた。大山車は門前町の各地区が所有していた。大きさは特定されていないが、現存する幕などから判断すると小山車の倍ほど大きさが推定されている。この大山車が12基曳行されていたと伝わっている。
近世期の姿での祭礼は、明治5年(1872)から様変わりしたという。まず、大山車・小山車が廃止となり、小山車の大きさで各地区が山車を所有する事になった。また、旧暦から新暦に変更するに伴い、8月2日~15日が、9月2日~15日になった。またこれは、曳きものに関する祭礼で形容が一変する共通の出来事であるが、電線が敷設された事に伴い、山車の大きさの画一化が行われた。さらに町制の整備により、町が整理された為、各地区に1基というシステムが変更になった。現在の6基は、曳行担当の地区が6町になった為である。
実際に収蔵されている骨組みだけとなった山車を管見した所、京都の祇園祭の舁山の形態と似ている部分に注目した。台車の部分の上に取り付ける胴枠の細さとその上に装飾を兼ね備えた高欄部分の共通点が多く、確認する事が出来た。また、「御所辻子山車」だけは、高欄の上に3層になる楼閣を有している。これは、京都の祇園祭の「霰天神山」や「油天神山」に社殿を有していると同様に、豪華な姿であった。
また、この氣比神宮例大祭を「無形民俗文化財」の登録への活動に関してもお伺いした。先の大戦の空襲によって、山車庫が炎上・崩壊した為、山車が3基しか残らなかったという。祭礼に使用する山車の修繕費は多額な金額になる事と、人形や幕など保全・修繕する必要性が高まった事により、山車を所有していた各地区が、山車そのものを有形文化財として登録する事により、祭礼の維持をはかったという。有形文化財に登録された事により、氣比神宮例大祭の関心を高め、一部売却された山車を敦賀に戻す運動のきっかけとなった。これは文化財指定というシステムを活用した結果であり、戦後の祭礼復興に関する興味あるお話であった。なお、「御所辻子山車」は昭和55年に市指定文化財に、「金ヶ辻子山車」は昭和46年に市指定文化財に、「唐仁橋山車」は昭和36年に市指定文化財になっている。残りの3基の「東町山車」・「観世屋町山車」・「鵜飼ヶ辻子山車」は、平成6年に氣比神宮の倉庫や各地区の元山車庫や個人が所有し残されていた山車の骨組みや設計図をもとにして復元されたものである。
7日には福井市の福井県立図書館にて氣比神宮例大祭について記述されていた地誌類の文献・資料調査を行った。『越前国古今名蹟考』の「敦賀郡」「氣比太神宮」の項目には、氣比神宮は青蓮院門跡配下であった事が明記されている。越前国は吉田家から神道裁許状を授かっている神社や組織が多い事が知られているが、その中で氣比神宮は青蓮院門跡の権威と結びつき、京都との関係を保有していた事が分かる。
また祭礼に関しては、「八月二日 神輿渡」、「三日 練物二拾」、「四日 大山六箇」とある。この3日の練物は、小山車の事を指している。また敦賀の地誌である『敦賀志』には、2日の宵宮には宵山が出され、紙細工で作られた練物が出されていた事が書かれている。さらに小山車は先述したように多い時には、40~50基曳行されている事が書かれ、大山車は12基も曳き出されていた事も記載されている。ただ、『越前国古今名蹟考』は福井藩士の井上翼章が文化12年(1815)に編纂し、『敦賀志』は氣比神宮の権祝の石塚資元が嘉永年間(1848~54)に編纂したとされる。この年代間に差があるので、祭礼の様子が違ってくるのが、これらの記述の差であると考える。近世期末の方が祭礼の規模が大きくなっている事が分かる。これも曳きものに関する祭礼の共通点である。
(2)京都府京都市調査
京都府立総合資料館に所蔵され、京都府京都文化博物館が管理・資料収集されている、江馬務所有の現物資料のコレクションに関するモノは、約8,000点、吉川観方コレクションは、約15,000点にものぼる。よって調査対象とする祭礼・神事を絞る事とした。國學院大學伝統文化リサーチセンター資料館内の「神社祭礼に見るモノと心」スペース内では、京都市左京区下鴨泉川町に鎮座する賀茂御祖神社(下鴨神社)の摂社である河合神社の御神服が、現物資料として展示されている。これに関連付けて、京都を代表とする祭礼である「賀茂祭」(葵祭)の現物資料の閲覧・調査をする事にし、両者が参考としたであろうと推測出来る「装束」に関する古文書を中心に閲覧する事になった。また江馬務は賀茂祭について有職故実を知る為に最適な祭礼として賀茂祭をしばしば取り上げている。この事に関しても賀茂祭に選定した理由の一つである。
まず、江馬コレクションの内容については、江馬務の原稿類と、各社寺や祭礼・神事の史料(原本類)、それと近世期に版本となった有職故実に関する文献が大半であった。実物の装束や化粧道具は少ないとの事であった。江馬氏の年譜(江馬務著作集刊行会編『江馬務著作集 別巻』中央公論社 昭和57年)などから見ると、大半の現物資料は長年勤めていた京都女子大学をはじめとして、各大学や研究機関に寄贈されているようである。江馬氏の論文や著作を見ると、特に大正から戦前までの作品に「我が文庫の本によると」という記述が目につく。現在の様に、有職故実に関する文献が、翻刻や書籍化されていない時代であった為か、ご自身で蒐集した書籍を参考にして論文や著作の参考文献・参考資料としている。実際、賀茂祭関連に関する文献を拝見させていただいたが、初見のものばかりであった。閲覧した史資料は以下の通りである。
(江馬務コレクション)※括弧内の題名は江馬氏がつけたものである。
『賀茂臨時祭記』(『賀茂臨時祭御次第』、成立年代不明)
『元禄七年四月十八日御再興以来 賀茂祭使色目書 宝暦二年迄』(『賀茂祭使色目書』天保七年と江馬氏の字で「注」が書かれている。)
侍従藤原定功『天保三年 賀茂臨時祭舞人参向別記』(『賀茂臨時祭舞人参向別記』)
侍従通禧朝臣『嘉永三年十一月廿一日 賀茂臨時祭四舞人参仕記』(『賀茂臨時祭四舞人参仕記』)
季張『延宝七巳未歳六月八日 賀茂御神服縫裁物覚』(『賀茂御神服縫裁物覚』)
従四位下季忠『文久三■四月 葵(虫食いのため判読できず)』(『文久三年 葵祭次第』)
『文政九年 加茂行幸之記』(『加茂行幸』)
『賀茂祭行列書』江馬家蔵
『賀茂祭装束色目表』
江馬務「加茂祭の沿革及其服装」(『有職』第3巻 有職保存会 大正5年)
江馬務「賀茂祭の研究」(『立命館文學』第二巻 第三號 昭和10年)
江馬務「葵祭」(『K・O・K』(キョート・オーサカ・コーベ)5月号 宝書房 昭和22年)
江馬務「葵祭あれこれ」(エリア歳時記)(『京都放送』第8号 京都放送株式会社 昭和37年)
一方、吉川コレクションであるが、現物資料が膨大であり、吉川氏ご本人が生前に、京都府立総合資料館以外に所蔵される為、奈良県立美術館を設立。また縁故により、福岡市博物館にも現物資料が寄贈されている。吉川観方は画家である。江馬氏は有職故実を学問的な目線で捉えていたのに対して、吉川氏は芸術的な目線で見ていたと思われる。大正五年から江馬氏が主宰としてはじまった「風俗研究会」に、吉川氏も参加していたが、昭和7~9(1931~33)まで京都で行われた染織祭で意見の違いが明確になり風俗研究会を離れ、「故実研究会」を中心として活動を行うようになった。
吉川コレクションに関しても賀茂祭関連の文献が所蔵されていたので、拝見させていただいた。閲覧した史資料は以下の通りである。
(吉川観方コレクション)
『文政年間加茂祭』
『あずまあそび』
『明治十七年御再興加茂祭召具色目』(『明治十七年賀茂祭記』)
『賀茂氏足翁二十四番歌結』
『文久三癸亥年三月吉日 賀茂下上社 行幸御列書』
『賀茂競馬乗尻装束色目并馬具』
江馬氏コレクションの方は、賀茂祭や賀茂臨時祭に於いての「舞人」に関する原資料がたくさんあった。舞人はそれぞれの祭礼によって着する装束が違う為、有職故実に則った儀礼作法が存在していた(社頭での立ち位置や進路など)これらの資料を基にして、賀茂祭研究に於いて代表的な論文である「賀茂祭の研究」(『立命館文學』第2巻 第3號 昭和10年)を書き上げたと考えられる。実際、戦後、昭和29年に賀茂祭の行粧が再興される際に、葵祭協賛委員に就任し、指導にあたっている。一方の吉川コレクションに関しては、数は少ないが、『文政年間加茂祭』などは彩色された文献であり、文政年間の賀茂祭の装束に関する絶好の史料の一つである。また各諸役が着する装束に描かれた文様なども細かく描かれ、本年(平成22年)の賀茂祭の路頭の儀を拝見した際に、見較べると全く同じ文様が使われ、有職故実が維持されている事が分かった。閲覧した史資料の一つに江馬氏は、「葵祭は有職の法則に一々あてはめて、一物一色とても勝手にとりかへたものは稀だといふことは驚異に値することであり、葵祭の眞に分る人は、ただ有職故実に理解ある人のみの特権である。」(「葵祭」〈『K・O・K』5月号 宝書房 昭和22年〉と言い切っている。
6. 調査の成果と今後の課題
福井県下に於ける曳きもの祭礼に関するデータは、7日の福井県立図書館にて収集を行い、目下、データベース化の作業中である。氣比神宮例大祭以外の曳きものに関するデータを見ていくと、旧国郡単位で曳きものの形状や祭礼に登場する場面や意味に違いが出ている事が分かる。越前国は山間部が多い為は大規模な曳きものの祭礼は少ない。ただ、「蓬莱祀」の様な独特の曳きものが存在するのは確かである。一方、若狭国は小浜などの湊町を中心に、小浜放生会や三国祭など大規模な祭礼が斎行されている。その中間に位置し、古くから畿内や美濃国との交流を持ち、近世初頭から台頭していた敦賀商人や町衆の力で斎行されている氣比神宮例大祭は、敦賀周辺の曳きものの文化を上手く吸収しているように見える。根底には京都の祇園祭を意識している事がはっきりと分かる。ただ、北陸地方全体を見ると、加能越地方が盛んにあるのに対して、曳きものの祭礼が少ないように思える。また、形状に関しても、加能越は飛騨国の高山祭などの影響によるものか精査する必要があるが、越前・若狭国の曳きものの形状とは異なる。その点が今後の課題となろう。
一方、江馬・吉川両氏の有職家が所有したコレクションを見ていくと、実際に神社祭礼や神社有職という場で用いられた原史料を手本として、両氏が居られた時代に有職故実を伝えている。あまりにも膨大すぎる為に、両氏のコレクションの分析には時間が掛かる。しかし、現物資料を含め両氏が所蔵していたコレクションは大変有意義なものである。神社有職だけでなく、日本の有職故実を考える上には欠かせない史資料となっている。これらのコレクションが活用される事を望むものである。
(文責: 新木直安)
このページに対するお問い合せ先: 研究開発推進機構事務課






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