お問い合わせアクセスマップキャンパス案内サイトマップ文字サイズ文字サイズ小中 大
國學院大學
文学部

教員随筆-小手川正二郎 『「わかる」と「かわる」――哲学とフェミニズム』

印刷する

2014年8月25日更新

「わかる」と「かわる」――哲学とフェミニズム

文学部  哲学科  小手川  正二郎
 
 
 
 都議会での女性差別発言やその顛末を目にして、人は何を考えるだろうか。根強く残る女性差別に憤りを感じた人、議会のレベルの低さを嘆く人、あるいは逆に、なぜこれほどの騒ぎになるのかと訝る人、反応は人さまざまであっただろう。学生のリアクションペーパーでも、就職活動で目の当たりにした男女間の不平等と重ねる女子学生が多くいた一方で、「男女平等は建前としてはわかるが、何かにつけて差別だというフェミニズムには違和感を覚える」と言う学生も少なからずいた。都議会での差別発言問題も含め、日本社会の隅々に見え隠れする男女間の様々な不平等に対して、早急な対応策が講じられねばならないということは、言を俟たない。しかし、こうした対応策がたんなる「建前」にとどまるなら、真の意味での変化にはつながらない。現状を変えようとするのであれば、われわれ一人一人が性差について、まずは自らの「本音」と向き合うことが必要だと思われる。


〔1〕 ボーヴォワール『第二の性』(『第二の性』を原文で読み直す会訳、新潮社)
〔1〕 ボーヴォワール『第二の性』(『第二の性』を原文で読み直す会訳、新潮社)

 かく言う私自身、フェミニズムについてある種の偏見をもって生きてきた。フェミニストというと、男性の言葉尻をとらえた非難をする女性たちというイメージをもっていた。そうした先入見を払拭し、性差についての自分の「本音」に向き合おうとし始めたのは、ここ二、三年の話である。非常勤先の講義で、フランスの哲学者ボーヴォワール(Simone de Beauvoir, 1908-1986)を取り上げたときのことであった。彼女の主著『第二の性』(1949年)のなかに、余裕があるときには妻に理解を示し、男女平等を掲げる男性でも、喧嘩になるや否や「俺がいないと、お前は生活費を稼ぐこともできないじゃないか」と言い始めるというくだりがある。研究とアルバイトで追い詰められた生活をしていたとき、妻に対して似たようなことを口走ってしまったことがある私には、この言葉が胸に突き刺さった。それまでは、自分が「男女平等に賛成する、女性に理解のある男性」だと信じ切っていた。しかし、ボーヴォワールの言葉によって、自分の建前と本音の乖離に向き合わされ、男女の真の平等について、本当は何もわかっていなかったことを思い知らされた。


〔2〕 阿部謹也『自分のなかに歴史をよむ』(筑摩書房)

 われわれはよく「頭では、わかっているんだが…」と言う。しかし多くの場合、それは「わかったつもりになっているだけで、本当はわかっていない」ということにすぎない。なぜなら、もし自分が考えぬいてわかったことであるなら、自分自身の生き方や態度に現れて来るはずだからだ。歴史家の阿部謹也は、恩師上原専禄からの教えとして、「解るということは、それによって自分が変わるということ」と述べている(『自分のなかに歴史をよむ』)。男女平等についてわかったつもりになっていた私は、自分の本音に向き直って自分が「変わる」までわかろうとはしなかったために、本当の意味でわかってはいなかったのだ。



***
 


〔3〕 ベル・フックス『フェミニズムはみんなのもの』(堀田碧訳、新水社)

 フェミニズムについての先入見から解き放ってくれたのは、あるひとりのフェミニストに教えてもらったベル・フックス(bell hooks, 1952-)の著書『フェミニズムはみんなのもの』(2000年)である。そこで彼女は、フェミニズムに関する「女性優遇」や「男性蔑視」といった根強い誤解に対して、「性にもとづく差別や搾取や抑圧をなくす運動」という定義を与え直している。フックスによれば、フェミニズムとは、(1)男性による性差別だけでなく、女性による性差別も問い直す運動、(2)女性だけでなく男性も家父長主義(家長たる父親が家族を支配・統率する家族の見方)の束縛から解き放とうとする運動を指す。


 フックスは、従来のフェミニズムが解放しようとしてきた「女性」が、中・上流階級の高学歴の白人女性であり、大多数を占める中流・下層階級の女性たちや有色・黒人女性が無視されてきたこと、一部の女性たちが高賃金の仕事に就けたとしても、彼女たちが嫌がる仕事(家事・育児・介護)がより弱い立場にある女性たちに回されることを指摘し、強い立場にある集団(男性・上流階級・白人)が弱い立場にある集団(女性・下層階級・黒人)を支配するべきという考えが、女性たち自身によって批判的に問い直されなければ、本当の意味での変革は望めないと主張する。さらに、従来のフェミニズムにおいて過度に敵視されてきた「男性」のなかにも、稼ぎ手であり支配者という家父長的な「男らしさ」に違和感を抱いている人が数多くいることを喝破し、フェミニズムが「弱い立場にある者(妻・子供)を支配することによって自分の存在感を誇示するようなあり方」から男性を解放してくれるという点で、男性にとってもポジティブな運動となりうることを示唆している。
 講義のなかでこうした話に触れたとき、女性が社会進出し、高収入を得るようになると、低所得の男性が結婚しにくくなるのではないかという疑問をぶつけてくれた男子学生がいた。おそらく、このような危惧こそ、男性もまた家父長的な男性観(男性が一家を支える稼ぎ手でなければならないという見方)に束縛されていることの証であろう。男女間の賃金格差が減り、男女が共に仕事をしやすい環境が整っていけば、むしろ学歴や職種や所得だけから男性が評価されることは、より少なくなるはずであり、あるがままの自分を認めてもらえる機会が増えることは、男性にとっても望ましいことだといえよう。

 

***
 

 学生たちが性差問わず、各人各様の「本音」に向き合い、それがどのような社会通念や考え方に由来し、いかなる根拠をもつのか(あるいはもたないのか)を自分たち自身で吟味してもらうこと、そのようにして学生たち自身の「わかる」が「かわる」へと繋がる手助けをさせてもらうこと、哲学教育とはそのような営みであろう。本学名誉教授である里見実先生が訳者の一人に連なるフックスの著書『とびこえよ、その囲いを』(1994年)の次のような一節は、そのことをいみじくも、力強く表現している。
 

   わたしたちのだれもが精神と心を開き、通念のとばりを超えた知に迫り、思考し、さらに再思考し、
   新たなヴィジョンを創出していくことを願いながら、わたしは教える行為を祝福する。越境を可能
   にする教え――境界を逸脱し、それを踏み越えていく精神の運動を祝福する。この運動こそが、
   教育を自由の実践たらしめるのだ。(ベル・フックス『とびこえよ、その囲いを――自由の実践
   としてのフェミニズム教育』、里見実・朴和美・堀田碧・吉原令子訳、新水社、2006年、15₋16頁)
 

 哲学を学ぶとは、難解な哲学用語や便利な考え方を暗記することではなく、自分自身で考えぬき、真の意味で「わかる」力を養うことである。その際、共に学ぶ学生や先人たちの思考に耳を澄ますことで、自分の考え方の一面性に気づき、それを越えて真に自由な仕方で思考し(「越境」)、「かわる」ことが可能となる。この点で哲学はフェミニズムの核となりうるし、フェミニズムは哲学の試金石となりうるのだ。


〔4〕 ベル・フックス『とびこえよ、その囲いを――自由の実践としてのフェミニズム教育』(里見実、朴和美、堀田碧、吉原令子訳、新水社)



2014年8月21日

 




このページに対するお問い合せ先: 文学部資料室

文学部
お知らせ
概要と特色
教員随筆
学会・刊行物
資料室案内

学科ページへ
日本文学科
中国文学科
外国語文化学科
史学科
哲学科

哲学科
教養総合科目
副専攻

資格課程ページへ
資格課程(教職課程)
資格課程(図書館司書課程)
資格課程(博物館学課程)
資格課程(社会教育主事課程)
資格課程(神職課程)